森博嗣『科学的とはどういう意味か』を読む

科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)

科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)

 おれと科学、科学とおれ。笑わずにはいられない。おれは高校の理系の宿題まで母親に頼っていた。今もって、どうして理数系のテストの赤点を逃れて高校を卒業できたかわからない。おれは小学校の理科からまったくできない子であった。今もって算数もよくわからぬ。
 そんなおれが『科学的とはどういう意味か』なる科学の本を読む。鬼も笑う。とはいえ、おれはおれが科学に不自由な人間であるがゆえに、科学の熱烈な信奉者でもある。この世界というものは科学で片がつくと思って疑わない。囲碁も将棋も株の相場も、馬券でさえも、科学の力によって解き明かされるものと思っている。おれは科学の「か」の字もわからぬが、科学というのは一種の真理であり、無謬のものであると信じて疑わない。

 ……などと自分の日記から剽窃して書き始めてしまったが、そういうことである。

 科学とは「誰にでも再現ができるもの」である。

 と本書にあったから再現したわけでもないのだが。しかしなんだろうか、本書はおれのように小学校の算数でつまずいてとりかえしがつかなくなり、ただただ逃げるようにして文系に行った人間をやさしくなぐさめてくれるかのようでもある。もっとも、もうおれもおっさんなので、いまさらなぐさめられたところで人生のやりなおしは効かないのだし、科学に取り組んだところでなんの意味もない。それよりも生きる余裕がない。……おれが生きる余裕を失ってどん底に近い暮らしをしているのは、理数系から逃げてきたせいかもしれないが。
 いや、もうなんだろうか、本書を離れておれの話をするが、おれはおれの理科の不得手が小学生のまさにその時分から不思議でならなかった。算数ができない(計算のうっかりミスが多い)のはわかる。だが、まだ数式とは縁がない月の満ち欠けの仕組みだの、植物の構造などについての理科までもが駄目な理由がさっぱりわからなかったのだ。血統でいえば、おれの父の父は京大出の化学博士である(今もおそろしく古い論文がネット上で見られる)。それなのに、ともかく国語と社会ばかりできて、算数と理科がまるでできなかった。ひょっとしたらどこかで呪いをかけられてしまった(心理的に悪影響のある言動をだれかにされた、あるいは自分で思い込んでしまった)のかもしれない。いやはや。
 本書に戻れば、おれのような人間が再生産されないような教育のあり方についていろいろと述べられているので、まあそうなればいいんじゃないの、とは思う。ともかくおれは国語がよくできたが、理数系から逃げたという意識はいまだに根強い。逃げた先が「小論文、英語(辞書持ち込み可)、世界史」という大学受験だったあたりが情けない(今はどうかしらんが、そのおかげで慶応の文学部なんぞに入れたわけだが。だって辞書持ち込み可の英語なんて「国語」じゃねえの。小論文とあわせて国語二つだぜ)。まあ、大学も途中で辞めたのでどうでもいいが。
 あとはこんなところか。

 科学的であるためには、広く報道されているもの、みんなが信じているもの、ときには自分が子供のときに学校で教わったもの、などでさえも鵜呑みにしてはいけない。正しいのか正しくないのか、より多くの意見を聞き、情報を集めたうえで、「だいたい、正しそうだ」、「どうも間違ってるらしい」という程度の評価をすれば充分だ。絶対に正しい、完全に間違っている、とまで決めつける必要はない。

 これなんかは非常に納得できる。科学の話ではないけれど、スラヴォイ・ジジェクだったか、「即断を求めるものは疑え(信じるな?)」とか書いているのを読んで、「そうだな」と思ったおれである。「だいたい」、「らしい」このあたりの「あそび」(たとえば自転車のブレーキのそれみたいなやつ)があったほうがいい。そういう意味で、情報の氾濫する今、たとえばいろいろの人の意見を見られる「はてなブックマーク」なんていうのは便利なツールといえないだろうか、と謎のはてな推し。
 あるいはこんなの。

 数字を記憶するのは、なにも円周率を精確に覚えろという意味ではない。電話番号や友人の誕生日を記憶しなさいという意味でもない。むしろ、数字より「量」である。だいたいいくつくらいか、を把握していることが大事なのである。円周率だったら「3より少し大きい」くらいを知っていれば充分だし、このことは正三角形を6つ集めて正六角形にするシーンを思い浮かべれば、数字すら覚えなくても自明のことだ。量を把握するだけで、そういった道理や、他の道理との関係も見えてくる。この「見通し」こそ、科学的であることの価値である。

 おれはまえにこんなことを書いた。

 そしてなんだろうか、そういった基本的な事柄というのは、最高級、最先端の科学教育を受けなければ身につかないものではないのだろうな、とも思う。おそらくは小学校、中学校、高校あたりの授業をきちんと聴いて、その場しのぎでなく理解していけば、なんとなくの推測はつく事柄なのではないだろうか。フェルミ推定というか、なんというか、物理と数学で成り立っている世界の大雑把な把握というものである。大雑把でも世界を把握している。細かく計算してみたり、実験してみたら違った、というのでもいいが、仮説を立てられる。それが本当に賢いことなんじゃないだろうか。

本当に賢いということ 『ホワット・イフ? 野球のボールを光速で投げたらどうなるか』 - 関内関外日記(跡地)

 おれはどうも、おれの知らないうちに科学的なものの見方をわかってるんじゃないのか? やったー! って、おれは月と地球の大きさも知らないし、月と地球の間に地球が何個入るのかもわかってねえし、そもそも「正三角形6つ集める」のを脳内で構築するのも無理だ。だめだー!
 まあいい、おれはこの科学の時代にあって科学の人ではない。そのせいかどうかわからないが、人生の落伍者だ。それは痛いほどにわかっている。せいぜいなにか悪いものにだまされないように、これ以上悪くないように日々を過ごすばかりだ。『無門関』の瑞巌和尚の心持ちだね。はい、おしまい。

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ホワット・イフ?:野球のボールを光速で投げたらどうなるか

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数学する身体

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