埴谷雄高・立花隆『無限の相のもとに』を読む

無限の相のもとに

無限の相のもとに

 おれは埴谷雄高の『死霊』を自分の本として所有していて、読もうと思えばいつでも読み始められるし、いついつの期限までにどこぞの図書館に返却しなきゃあいけないってこともない。けれどおれは埴谷雄高の『死霊』を1ページも読んじゃいない。おれにはまだ早い。もっと賢くなって、外堀から埋めていくんだ、という気がするのだ。
 その外堀の一つが本書である。おおよそ立花隆による埴谷雄高へのインタビューとなっていて、そのおおよそは埴谷雄高の語りである。おれは埴谷雄高という人を、立派なアナーキストだと思い、その言葉に信頼を抱いている。本書を読んでその思いをまた強くしたといっていい。
 インタビューの内容はといえば、埴谷雄高共産党での活動のことなどから始まる。スパイMのこと、ハウスキーパーのこと。そして、日本の官僚主義への批判。

……実際上、しかし日本では不可能なんです。日本はロシア以上の固定主義なんです。日本の官僚主義というのはすごいものなんです。いっぺんなったらずーっとなっちゃう。

 おれの好きな(?)ベリヤの名前なんかも出てくる。

……一枚岩という時代は、ある意思があれば、その意思が真実で、真実は永遠にいくということになっているから、それを離れたものは全部不真実で嘘ということになる。それは体制が崩壊しない限り変わらない。ベリヤのことはいまだに出てこない。僕は政治論文に書いていますけど、はたがみんなベリヤをどういうふうに墓に埋めたかということを言わないと、墓を開けてもベリヤの死体もないということになる。

 「墓を開けてもベリヤの死体もないということになる」、これである。おそろしい。たしかにベリヤの最期は諸説ある(さよなら、ラヴレンチー〜『ベリヤ 革命の粛清者』を読む〜 - 関内関外日記(跡地)ベリヤ好きなら警戒! 『ベリヤ スターリンに仕えた死刑執行人 ある出世主義者の末路』 - 関内関外日記(跡地))。もう墓を開けてもベリヤはいないかもしれない。
 あるいは、おれの好きな(?)アゼフも、「スパイM」のところに名前が出てくる。

 とにかくアゼフと同じように能力はあったわけですよ。党からも信用されるほど、いろいろなことをやってるわけだ。大きくしておいてバサッとやるということは、やはり能力がなくちゃやれませんよ。

 やはり「M」は日本のアゼフか(日本のアゼフ? 『スパイM』を読む - 関内関外日記(跡地))。などと思ったり。
 ……とかなんとか、世俗的(?)なことはともかく(まえがきにも対談にも出てくる「スプーン曲げ少年」のインチキを埴谷雄高が見破った話なんかもおもしろいけど)、もっとなんか高尚な、観念の世界の話なんだよな。でも、一部『死霊』前提で、そこは前述のとおりわからん。

 ぼくは「自同律の不快」ということを言いました。これはぼくの言葉ですけど、普通の人は自同律の「不快」とは思わないが、ただ、今よりもっといい自分になろうと思う。というのは新聞を読む、本を読む、すべて自分の知らない何かを知ろうと思って……。誰かと話する。まあこの対談もそうですけど、相手の胸の内を知ろうと思う。ぼくは自同律の不快というものは「満たされざる魂」という言葉としても使っているんです。「満たされざる魂」という言葉は、カント的に言えば魂、ゼーレというのはいちばんだめな言葉であって、魂というのはどうとでも言えるような言葉だから困るんですけれども。しかし我々は宇宙に出ていくまでは、地球人である間は魂という言葉を使っていいんだとぼくは思っているんですよ。

 これである。そして、立花隆量子コンピューターや宇宙飛行士の話題、最近話題のディープラーニングの(アイディア、幕開け)のことなんかを持ち出す。埴谷雄高はそういう話に食いついてノリノリというところがある。100年後が見たいなどと言う。これは92年の対談だから、埴谷雄高は80歳を超えている。宇宙的規模の人だな、と思わせる。『死霊』を火星のオリンポス山の頂上に置いて欲しいなどと言う。映画『2001年宇宙の旅』を観て「あの当時よく作ったですよ」なんて言う。

 クレーターというのは、今残ってるのは陸の上ですけど海の底のにもあるんですよ。海の底のクレーター、これはまた火星とかいろんなところから隕石が生の因子を運んできて、海に落っこって、そして太陽の光と水で栄養を得て生物が発生した。生物は恐らく地球で発生したよりほかから持ってこられて海に落とされたんじゃないか。クレーターの底から発生したから、何となく人間は喜びより絶望の方が文学的に感銘度が高い。アリストファネスよりソフォクレスのほうが偉いと自然に思うようになって、喜劇より悲劇のほうがいいというふうになったのは、全部いちばん始めに原因がある。
 地球に落っこったやつが全部クレーターをこしらえて、そこの中から生物が少しずつ、悲哀の念にかられながら……

 おれの好きなパンスペルミア説(おれはパンスペルミア説の支持者だけど……『スリランカの赤い雨』 - 関内関外日記(跡地))だけれども、まさかそっから人類の悲哀について考えるところまでいくとはすごい。発想が違うな。

……椎名麟三がクリスチャンになるといったときにぼくは論争しまして、だめだと。おまえ、なるんならひとりイエスになれ。教団に入るのはだめだ。堕落の始まりは教団であって、あらゆる発見・発明、それから先覚的な預言、これは個人がなし得る領域だから、おまえがイエスになれば何かやれるかもしれない。だから、ひとりイエスになれ、教団はだめだと言ったんですよ。

 これもすごい。宗教の個人化というものを見抜いている。そして、人間の集団というものに対する諦観のようなものがある。「ひとりイエスになれ」。しびれるじゃあないの。
 あとはもう、『死霊』関係の話なんかがあって、もしおれが今後『死霊』を読むことがあったら、本書も再読しようかという具合。あと、何枚も埴谷雄高の写真が載っていて(小さな風呂に入ってる写真まである)、これが渋かった。難しそうだけど埴谷雄高。いつか挑んでみよう。

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