中島義道『ぐれる!』を読む

ぐれる! (新潮新書)

ぐれる! (新潮新書)

 社会を変えれば改善・解決できる問題も、たしかにあります。しかし、個人にとって最も重たい問題は社会をいくら変革してもいささかも解決されることはありません。著者いわく「盲人が目が見えるようになるわけでもなく、鈍才が秀才になるわけでもなく、ブスが美人になるわけでもない」のです。とりわけ、「死すべきあなたが死なないようになるわけでもない」のです。
―出版社からのコメント

 図書館でスイスイ読んだ一冊。なので引用などはない。そして相変わらずの中島義道節といったところだろうか。理不尽な条件で生まれ、育ち、それでもなお理不尽な平等と競争を強いられる。だったらもう、ぐれちまいなよ、というお話。病むべくして創られながら、健やかにと命ぜられ、とはどこのだれの台詞だったかしらん。まあ、世の中の競争や上昇志向から負けたり、そもそもそんな争いの土俵に立ちたくない人間はどうすべきか。己の弱さを、甘えを認めながら直視して、ぐれろよ、と。「ぐれてるとおっしゃられているが、上手く生きて立ちまわっているじゃないですか」と言われるくらいにうまいことぐれろよ、と。それはそれで難しいことのように思えるが、そんぐらい気合をいれなきゃぐれるものもぐれられない。
 さて、おれはぐれているのでしょうか? 二十歳を過ぎて、最初に働き始めたころ耳たぶにピアスを開け、三十を過ぎてからさらに軟骨に二個ピアスを開け、髪もいい加減に染めた適当な色(今は黒がブームなのだけど)。へんな話だが、働き始めておれは「もう普通のサラリーマンのようにはなれないな」と思ってピアスを開けた覚えがある。二発目、三発目にとくに意味はないが、なんとなく一個じゃ中途半端という気がしたのだ。これでおれはもう、なんというかどうしようもなく戻れないぜ、戻る気なんてないぜ、という思いを強くした。おれはおっさんになって、ぐれた。そういっていいかもしれない。
 たかがピアス? されどピアス。べつになにか縁があれば刺青でも入れただろう(痛そうだし、温泉入れなさそうだし、怖そうだから入れてないけど)。おれはもう中島義道にいわれるまでもなく、人生の理不尽さ(たとえば背の低さなんてもんだってそうだ)を味わってきたし、引きこもりもしたし、もう降りてしまっているところが少なくない。それでいて、この先の人生も同じように生きていける保証はないし、それを思うと不安になるから、今日のところは寝るしかないし、いや、この弱々しさはぐれる、からは程遠いとも思えるし。まあ、そんなところ。