私はおよそどんな仕事にしろ、人間は楽しんで仕事をするようにならなければウソだ思っている。これからどんな風に世の中が変わるか知れないが、人間がみんな自分の仕事を楽しんでするようになれば、それ以上のユートピアはなかろうと信じている。そんな世の中がいつになッてくるものかという人があれば、つまり生きている間はユートピアというものがこないということと同じである。
「にひるの漚」
……というわけで、おれの辻潤第二弾である。中身が前のと被っていても気にしない。
幸い私の書く物を喜んでくれる少数の人達が、この世に存在してくれているので、私はせめてもの生き甲斐を感じている次第である。
「にひるの漚」
おれなどがこのようなことに共感を表すというのはあまりにおこがましいような気がするが、ブログという媒体によって「少数の人達」というものがいてくれることを実感するがゆえに、おれにも生き甲斐のようなものがある。そう思わせておいてくれ、という気になる。
どんな人間でも、労働の嫌いな点で僕にかなう人間はいまい。第一、そいつがどうしても避けられないときているから、ますます僕は考えただけでも嘔吐を催したくなる。
「うんざりする労働」
とはいえ、こんなところで共感したところで、おれが辻潤のレベルにあるかといえば、そんなこたあないんである。知識、度量、覚悟のうえにおいて辻潤はすごい。おれなどは、やはり「少数の人達」の一人として仰ぎ見る感はある。えらく年月を経ているが、いや、経ていて、なおかつそう思わせるところがすごいんである。
すらすらとなにかいいたいんだ。ただスラスラとなにかいいたいんだ。ただそれだけがいまの願望なんだ。つまり如何にそれが自分にとって至難であるかということが眼前になにかのようにドカンと横たわっているのだ。どんな風に? ――どんなあんばいに、畜生! ああ……と、ええ……とその、うむ……と、えとせとら的有象無象をすっかりかなぐり棄てて、ただスラスラと、ベラベラとまくし立てたいんだ。
「天狗になった頃の話」
なにかこのあたりは大杉栄の文体みたいな感じがする。それはともかく、「天狗になった」というのは、なにか得意になったということではなく、自分は天狗だといって二階から飛び降りて精神病院に入れられたという話なのだから、かっこいいじゃないの。
自分の発狂の原因はもちろんそんなに簡単だとは思っていないが、その直接な原因が貧困と過度の飲酒の習癖から来ていることだけは自分にも充分了解出来る。
「天狗になった頃の話」
しかしまあ、貧困と過度の飲酒! おれじゃあないか、おれおれ。というか、人生の落伍者につきものだ。まあ、そんなものだ。
自分がどんくらいな程度で宗教的な人間だかということは自分にはわからない。づ時にどのくらいな程度で文学的なのかそれもわからない。しかし、自分が政治家でも実業家でも、技師でもないことはたしかである。
「自分はどのくらい宗教的か?」
これも「おれおれ」と言いたくなるが、辻潤は寺にこもったこともあるし、文壇で名の通った人物でもある。何もなしたことのないとはいえ、おれの夢想癖、禅への関心、そしてまったくもって社会的でないところを考えると、やっぱり「おれおれ」と言いたくなってしまう。
「明日」が永遠にこないように、「明日のユートピア」も永遠にきそうもなさそうである。
「ユートピア」は是非とも「今日のユートピア」でなければならない。
「無なん茫沈」
これなどは、スラヴォイ・ジジェクの次の言葉を思い出さずにはいられない。
私にとって真のユートピアとは、「今も悪くないが、もっと良い時代を想像しよう」というものではなく、絶望と関わっています。現在の状況を続けていては生存できないため、ユートピアを実施するほかないのです。
とはいえ、こうやって皮肉にも言い切ってしまうのも辻潤なのである。
明日は知らず、今日は「金」がユートピアの横の鍵であり、縦の鍵である。「金」さえ握れば自らその人間に「ユートピア」が出現するのだ。恐らく現代人にとってはそれ以外のユートピアは考え得られないのかも知れない。
たぶんだが、おそらくこの21世紀の「今日」もそうであろう。そしておれもそうであろう。うつ病は金で治る病気だ。おれの躁うつ病にしたって同じだ。おれの人生のユートピアにしたって同じだ。金さえあれば、びっくりするほどユートピアだ。
しかし、「おれさえよければそれでいいのだ」というところに行かないところもある。
健康で御相互に仲よく暮らすことが出来、自分の好きな仕事にいそしむことが出来ればそれ以外にあまり問題はない。ただ、それが如何に出来がたいかという事実が存在しているばかりだ。
「こんとら・ちくとら」
この「事実」、今日もまったく一緒である。あるいは、もっとひどくなっているかもしれない。それは比較しようのないことかもしれない。だが、今、この時勢において、これが「出来がたい」ことと考えられるようには思えない。もちろん、かしこい人たちがどうにかしようとは思っている。思っているが、そうはなっていない。
「私は虹を見る度に躍りあがる」というのが「虹」の詩の最初の文句である。つまり、彼は子どもの時初めて「虹」を見た時の感激が、大人になっても少しも変わらない。
「こんとら・ちくとら」
これは辻潤が心酔していたというワーズワースの詩についてだ。おれが今年の一月一日に書いたのは、これを読む前だったと言っておきたい。どうでもいいが。
私は金儲けの仕事に対して興味がないと同様、一切の政治運動というものに対してもまったく興味の持てない人間である。
「こんとら・ちくとら」
さあここまで来る。政治運動にやや関わっていた、という事実もあるようだ。そして、一応は家族を養うために働き、文章を書いて金銭を得、尺八の門付けで金を得ていてた。が、「金儲け」には程遠い。なるほど、きっと政治運動にも嫌気がさしてしまったのだろう。大杉栄が「無政府主義もどうかすると少々厭になる」と書いたようなことだ。そして辻潤はボロ屋で餓死する。並大抵ではない。
世間の人間がみんな右の方を向いて行くからというので、私は無理にも左を向いて歩いているわけじゃない。まさかそれ程、意志の強固なツムジ曲がりじゃない。
私はただ自分の歩きたい方へノソノソと歩いて行くのだけだ。ただそれが、たまたま世間の多数と歩調を同じくし得ないとったって、別に世間の人の歩く邪魔にならない限りホッタラかしておいてもらいたいと思う。
「こんとら・ちくとら」
これはまた金子光晴の「おっとせい」でも思い浮かべようか。それでも、「ひとり歩きは寂しい」と言うところも辻潤である。
世の中が不景気で大多数の人達が困っているのに、自分がなんにもせずに毎日酒を飲んでアフラアフラしているように思われることはあまり愉快なことではない。しかし私はそう思われても別段たいして苦にならない。自分はつとに人生に対して「白旗」を揚げて生きている人間だからである。
「おうこんとれいる」
人生に対して白旗を揚げて生きる。これを言い切るところにある種の凄みがありはしないか。「凄み」というと力強すぎるか。なんらかの虚空がある。そして彼は虚空の通りに生きて、死んだ。やはりそれは凄み、ではあるが。
あるいはこんな言い方。
生まれて生きている「自分」というものは、誰か見知らぬ人間によって投げられた毬のようなものだ。運動の法則によって、ある定められた時間の間動き続けているに過ぎない。つまり惰性によって動いているのである。
「えふえめらる」
ある種の人達には嫌悪を与えるであろうこの受け身、やる気の無さ、しかし、おれのような人間にとっては「そのとおり!」なのだ。ここで人間を二分してしまってもかまわないように思える。
生きていることの面倒くさいことは今に始まったことではない。それがイヤなら死ぬよりほかに名案はない。自分のようなひとから見たらおよそ暇だらけのように見える人間でも、落ち着いて本などを読んでいる時間の如何に寥々たるものであるかを嘆ぜざるを得ない。しかし、生きているのだから、死にたくはないにきまっている。
「のつどる・ぬうどる」
あるいはこれはどうか。生きたくもないし、死にたくもない。金さえあれば死にたくもならないわけだが、かといってガンガン金を稼いで生きるつもりもない。
なにしろ人間が喰うにこまるなどということは滑稽でもありはなはだよろしくないことだ。人間の一切の労苦が単に生きんがためばかりだと考えると、まことに情けなくなってくる。何千万年生きてきたのかも知れないが、今のようなザマでは猿にも劣ってるとしきゃ思えない。
「のつどる・ぬうどる」
この何千万年の単位には、今、このときも含まれていると考えて差し支えなかろう。よろしくない。名案は死ぬよりほかにない。急所を突いている。というか、おれの人生観というもんがここにある。人間、生きるために食うために労苦を背負って、そればかりで死んでいく。おれも死にたくないという何らかの呪縛があるから死にきれない。そして苦しみは増していき、世間は憎悪に満ち溢れる。まったく、なんて日だ。
というわけで、こんなことになる。
自分には飲酒の性癖があり、それがかなり長い間続いているために、精神的にも肉体的にもアルコールの影響を離れては「自分」というものを考えることが出来ない。
「あるばとろすの言葉」
「アルコールのことをスピリットというんは、たしかに面白く意味深い言葉だ」というわけだ。辻潤はアルコールで警察や病院のやっかいになっている。おれはまだそうではない。いや、医者のやっかいになっているのかもしれない。とはいえ、おれが酒を断ったところでなにが残るのか? どうしようもない現実、金のない現実が残るだけじゃないか。おれのスピリットも酒にある。そして、いま、ここにユートピアの実現を待つばかりだ。
人間が楽しく働くことが出来て、みんな食べられるようにならなければいけません。それが出来ないうちは一切はダメの皮です。いくらエラそうなことをいってもダメです。問題はタダそれだけ、あとはことごとく枝葉――
「サンふらぐめんた」