人が子を残すとはなんぞや? 『リベラル優生主義と正義』を読む

 

リベラル優生主義と正義

リベラル優生主義と正義

 

おれのなかには、おれの個人的な優生主義というものが存在している。

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要するに、父を見て、全兄弟の弟を見て、さらに自分を鑑みて、この血筋は絶やすべきだ。というか、勝手に絶えるものだと考えている。適者生存、わが一族の血統はこの社会に適応しているとは言い難い。このような自分が、不幸の再生産を目指して子孫を残そうと考えるのは不徳である、ということだ。もちろん、おれが子孫を残そうと努力したところで、そんなことは不可能ではあるのだが。

さて、こんなおれはおればかりでなく、社会に多数存在するようにも思える。おれのように、遺伝を要因として子供を作ろうとしない人間が少なからずいるのではないか。差別的な言い方になってしまってもいいが、あまり物事を考えないで若いうちから子供を作ってしまうような人と、熟慮の上、経済的基盤などもしっかりしている中で子供を作る人と、その二極化があるのでないか。そんなことを考えている。そして、そのような情況があるとして、それが続いた場合、人間社会とはどうなるのか。おれの気になる分野である。だからおれはこの本を手に取った。

 本書は、リベラル優生主義、すなわち、個々人の持つ「生殖の自由」をラディカルに拡大して、親は遺伝子テクノロジー――とりわけ生殖細胞系列遺伝子工学――の力を借りてわが子のためにその遺伝的特徴をも選択することさえ許されると主張する立場を、主にそれが引き起こす社会的・倫理的問題に着目して検討しようとするものである。

「はしがき」

というわけで、本書はおれのような被淘汰側ではなく、SF的な言葉遣いをすればデザイナー・チャイルド(あるいはデザイナー・ベビー、もはやSF的でないのかもしれないが)について取り扱っている。ダーウィン、そしてそれと同時に現れたといっていい社会ダーウィニズムに遡り、現代における論争までを紹介してる。著者の意見は最後の方にちょっと顔をのぞかせる。感想、という結論を言えば、非常にエキサイティングでおもしろかった。おれが子をなす(べき)存在でない、という立場にあっても、人類というもの、生命というものの面白みを感じさせるものであった。面白がるような話かどうかは知らぬ。おれはもう知らぬ。ただ、傍観者として眺めるだけのことだが。

して、とりあえず優生学、優生思想、優生主義についてだが、これと強く結び付けられるのが、ナチスによる断種や虐殺、あるいはネイティブ・アメリカンらの断種、アボリジニーの、そして、我が国においてはハンセン病へのそれなどがまず結び付けられるといってよい。が、この「リベラル優生主義」は、それらとは一線を画すものである。決して、国家の強制ではない。そうではないところ、各人が自由に選択するところを問う。まずそれが前提だ。各人が……たとえば着床前診断をすることについての是非、とかそのあたりの問題である。そしてもちろん、いずれ来るべき遺伝子介入についての話となる。どこまでが自然なのか、自然は信奉されるべきなのか、「改良」と「予防」の違いはどこにあるのか……。

 同じことは、免疫力の強化についても言える。例えばガンやエイズに対する免疫力が、遺伝子工学によって通常のレベルよりはるかに強化されれば、それは「改良」と呼ばれるにふさわしいが、同時にそれは予防医学の目的を達して、後追い的な「治療」を不要にしていることになる。このように考えれば、老化のコントロールも免疫力の強化も、治療と改良のいずれにかに区分することは、明らかに不可能である。

「序章 リベラル優生主義の原理」

いきなり難しい問題をはらんでいる。というか、ダーウィニズムの誕生とともに、それは現れたといっていいかもしれない。福祉や医学の進歩によって、本来淘汰されるべき遺伝が残ってしまうというは問題である、という視点。むろんこれはナチスの優生思想につながるようなものだが、人類は当初からそこに着目していた。おれが想像していたより、ずっとまえに。

貧困者が生殖を禁じられるような国家、完全に向かうけがれなき人種を継続する厳粛で名誉ある特権の候補者すべてが許可とか競争的試験を受けねばならず、純粋で健康で発達した体質を持つものだけが将来世代に苗字や家族を残せるような国家、したがって、民族のエリートだけが親になる権利と機能を持ち、人類が進歩の最終的可能性に向って着実に失敗なく前進できるような国家を考えることは可能である。

(Greg 1868,361)

日本人が「いやーろっぱさん」とか言ってる(たぶん当時の日本人は言ってなかったと思うが)とき、すでにこんなこと言ってたんだよウィリアム・R・グレッグは。「グレッグにとって、自然選択の法則を妨げないという意味で理想的な社会というのは、国家が社会不適応者の生殖権を強制力をもってでも抑制するような干渉主義的専制国家であった」のだ。

して、ダーウィン先生はといえばこんなことを言っている。

文明国においてすぐれた階級の人の増加を妨げる最も重大な障碍が、グレッグ氏とゴールトン氏によって強力に主張されている。すなわち、それは、非常に貧しい無分別な人たちはしばしば悪習によって堕落し、ほとんど例外なしに早婚だが、他方、慎重で質素な人たちは一般に他の面でも高潔だが、自分自身や子供を不自由なく養うために晩婚になるという事実である。早婚の人たちは一定期間内により多くの世代を生み出すだけでなく、……より多くの子供を作る……こうして、社会の中で無分別で、堕落していて、しばしば不品行な人たちが、慎重で一般に高潔な人たちよりも速いペースで増加する傾向がある。

Darwin 1871,173-74,訳200頁)

こんな意見、今、この、21世紀でも極論を言いたがるやつが言いそうなことじゃない? 違うか? ダーウィンがこれ書いたの1871年だぜ。でも、なんか、マイルドヤンキーじゃないけど、そういうところって、ある意味で伝統的なのね、とか思っちゃうじゃん。思っちゃうおれは階級差別主義者か? いや、自分自身を不自由なく養うことができないと見切りをつけているすごくすごく高潔な人なのさ。

もし私たちが故意に、弱者や病人を見捨てたならば、それは、〔遺伝的資質の改善という〕不確かな利益になるとしても、非常に大きな現実の悪である。したがって、虚弱なものが生き残り、その数を増やしていくという疑いもなく悪い結果に、われわれは耐えなければならない。

まあ、ダーウィン先生の名誉のためにも、このあたりの道徳的な物言いを引用しておくか。でも、その利益を求める思想というものは受け継がれていく。レントゥルという外科医の物言い

レントゥルによる、強制的断種が施されるべき者のリストは、きわめて網羅的である。それは、精神遅滞者、精神障碍者てんかん、聾唖者、発達障碍者、習慣性の大酒飲み、習慣性の放浪者、売春婦、多くの性的倒錯者、顕著な神経症患者のすべてを含んでいる。彼らに向ってレントゥルは言う。

君たち全員に対して、われわれは言わねばならない。君たちが望めば、結婚してもよい――われわれは決して勧めはしないが性交渉を持ってもよい――われわれには君たちを止めることはできない。 君たちは、無計画な帝国建設者であり、国民に対する重大な脅威である。だから、君たちがその欠陥を罪のない無邪気な子供たちに受け継がせたり、寄生的な人間の総計を許すわけにいかないし、今後も許さない。こういう寄生的人間が、すでに重税を課されている納税者に負担をかけることによって、納税者の結婚を妨げたり、子供の数を増やすことを抑制させているのだから。

(Rentoul 1906,145-46)

ここまで言われるとすがすがしいとさえ思う、精神障害者にして大酒飲みのおれである。冒頭に述べたように、おれはこういった思想が国家からの強制ではなく、あるいは社会の構成員からの圧力でもなく、内面化してしまっているのではないか、というところに興味がある。少なくとも、おれはそうだからである。一方で、おれは一応納税者であるという一面もある。その宙ぶらりんなところは……どうしたもんかね。

とはいえ、ここにはおれがおれはこのようにして見る、という視点が存在している。

……つまり、彼らにとって、人間は単なる生物学的存在ではなく、自らの生物学的諸特徴を観察・研究の対象ともすることができる合理的・自律的存在なのである。自己意識を持つ、道徳的主体である「人格」は当然、自分自身の生物学的身体をも操作・改変可能な客体として認識することができる。

「第三章 リベラル優生主義の倫理的正当化」

「彼ら」とはドゥオーキン、ロールズノージック、とかいう論者。リベラルな論者。人間とは……ミニ四駆みたいに改造してかまわないという(言い過ぎか)視点がある。なるほど、ならば遺伝子改良も許される。むしろ推奨されるかもしれない。

もちろん、その改良というのも今のところは自在に行えるものではない。せいぜい、精子バンクから優秀な(現代に適応した?)人材の遺伝子を選択するとかいうことくらいか。

遺伝子のプール、というものもある。鎌形赤血球貧血症とかいう話もある。が、「だったら蚊を撲滅したほうがいいんじゃね? とか、効果のある薬品を作って、使えばいいんじゃね」という発想の方が、不利益より利益を生む、なんて意見もある。もっともだ、ともいえる。また焼酎をこぼした。

とかなんとかで、まあ、なんというか、リベラル優生主義は強いような感じもある。下手に遺伝子工学が人間に障碍を与える危険性を理由にした批判は、逆に優生主義的な価値観じゃねえの、とか言われたりしちゃう。裕福なものだけがその恩恵にあずかる、というのも、いろいろな分野で通ってきた道であって、いずれは皆に普及する、とか言われちゃう。ポリオ・ワクチンの予防接種は遺伝的な予防となにが違うの? とか言われちゃう。

……ブキャナンらも、障碍を持つ人々が、科学の力を用いて障碍を未然に防止しようとういう企てに不快を感じるのは理解できると言っている。しかし、ある行為が特定のグループに「不快」を与えるということと、その「不快」が彼らの権利・自由の侵害だということはまったく別の事柄である。

第四章「リベラル優生主義への反論と応答」

妊娠後に我が子に重い障害があることが確認されて、人工中絶をする。これは、その生涯をもって生きる人を否定することになるのかどうか。たまに議論される事柄ではある。こんなふうに、まったく別もんだぜってブキャナンは言ったりしている。ブキャナンがだれだかよく知らんが。

とはいえ、哲学的見地からのリベラル優生主義への批判もある。

人間として最も重要なものは、人間の物質的な枠組みのうちに明白な効用をもたない。というのは、人間の目的、目標、欲求、必要、欲望、恐れ、嫌悪などを生み、したがって人間の価値観の源となるのは、人間に固有の種々の情緒だからである。

(Fukuyama 2002,169.訳196頁)

フランシス・フクヤマきたー。って、名前しか知らんが。とはいえ、この「情緒」主義的な物言いは嫌いじゃない。いつかフランシス・フクヤマ読んでみようか。

でも、なんというか、人類、一度手にした技術は手放さないぜ、という気もするのである。たぶん、遺伝子工学は止められない。いずれ金持ち、特権階級からはじまって、二極化への固定、ないし、全体への拡がりが起こるかもしれない。そのあたりはわからんし、想像の埒外だ。遺伝子工学というものを、どこか国家や国連的なもので制御するのか、あるいは市場主義にまかせることによって最善へと向かうのかもわからぬ。でも、いずれにせよ、そっちに向っていくのは必然に思えて仕方ない。

たとえば、暴力的傾向を抑止する遺伝子介入なんてものは、けっこう歓迎されるんじゃあないだろうか。とはいえ、それが(ときに不正義な)体制への批判的言動への抑圧として働けば、いっそうの固定化が進み、人類進歩の足かせにもなりかねない。むずかしいところだ。

……などと言うおれは、最初に述べたとおり、自分の遺伝子を後世につなげる意志もないし、意志をもったところで成し遂げられる人間でもない。ただ、人間が子を残すこととはなんなのか。生命がそれぞれの種を後世に残していくということはなんなのか、興味本位に眺めているだけのことである。焼酎を飲みながら、眺めているだけのことである。以上。

 

 追記_____________________

北一輝の『国体論及び純正社会主義』で語られてるダーウィニズムの話しようとしてたの、酔っ払って忘れてた。

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