わいせつ箱職人の隠れ里

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「鎌倉にはわいせつ箱職人の隠れ里があるらしい」。

久々に会った歴史学者の友人がそう言った。酒の席での話のこと、話題はもっと他愛なく、どうでもいいことに移ろい、やがては霧散して朝を迎えた。うすぼんやりとした朝日、ひとけのない街、頭のなかにはなぜか「わいせつ箱職人の里」のことが思い浮かんでいた。

長い休みを取る。会社にはそう言い残した。歴史学者の友人に里の話をもう少し詳しくきいた。「戯れ言だよ、あれは」と彼は最後に言った。

だが、私は鎌倉を訪れた。見知らぬ古都。とりあえず、名前を頼りに湘南モノレールで西鎌倉という駅で降りた。そこには名刹もなければ隠れ里もないように思えた。私は初手から間違えたのだった。大船まで引き返した私は、横須賀線で北鎌倉に出た。

友人が言うにはこうだ。鎌倉には有名な七つの切り通しがある。この切り通しをある順序で通り抜けると、わいせつ箱職人の隠れ里にたどり着ける。鎌倉五山という有名な寺があるが、隠れ里にあるという密教の寺を加えて、地元の人間は六山と呼ぶことすらある。

私は、歩いた。友人が手書きしたメモを頼りに、切り通しを歩いた。ハイキングを楽しう家族やカップルとは違う世界を歩いているようだった。自分が膜一枚隔てられたところを歩いているような気がしたのだ。

そして、いよいよ最後の切り通しを抜けた。この先にあるはずだ……が、その先には平凡でいて「閑静な」という言葉が似合う住宅街が広がっているだけだった。私はもう一度一から歩きなおした。結果は同じだった。ただの、鎌倉市の、住宅街。私は途方に暮れた。しかし、私の頭のなかには、どうしてもわいせつ箱職人の隠れ里に行かねばならぬ。そのような思いでいっぱいになっていた。三度目の正直、という言葉もある。私は踵を返した。また一から。

と、そこで、今時珍しい和装の女性が路地に立っていた。歳は三十歳くらいだろうか。私のことを見ている。軽く会釈して通り過ぎようとすると、声をかけてきた。

「おまんは隠れの里を探してらっしゃるやろ。あちきには分かりますどすえ。でもなあ、ただ歩いているだけじゃあ、そこには行けんさかい、哀れや思うて忠告しに来たんどす」。

「あ、あなたは隠れ里のことを知っているですか? なにか手がかりを頂けませんか? 私はどうしてもあそこにいかなければならないのです!」

思わず、声が上ずってしまった。こんなに真剣になったことが、これまでの人生で一度でもあったろうか。すると、女性は手提げから紙袋を取り出した。

「わかりもした。そこまで言いはるんなら、これを持っておゆきなはれ。この袋の中に入っている豆を、三百歩ごとに落とすんや。一度通った道には、もう戻ってはあきまへん。進むしかあらへん。そしてたら、八つ目の切り通しにたどり着けるかもしらへん。その先は、おまんのまなこで確かめなされや」

そう言うと、彼女は私に紙袋を渡し、すっと細い路地に消えていった。後ろ姿を追ったが、どこにも姿を見せなかった。

私はすがるような思いで、三度目の切り通しめぐりを再開した。どこかの童話のきょうだいのように、豆を落としながら。豆の袋には「名品おまんの豆」という印字があった。彼女はどこから来たのだろうか。おそらくは鎌倉の者ではあるまい。漂白者なのか……。

やがて、最後の極楽寺坂の切り通しの終着点にたどり着いた。また住宅街か。そう思った。私は狐に化かされたのだろうか。とはいえ、私の気力は萎えていなかった。また最初の切り通し、化粧坂の切り通しの入口に立っていた。と、そこで私は自分の目を疑った。二股に分かれ、今までは目に入ってこなかった古道があるではないか。一方は化粧坂の切り通しだ。その証拠に、私が落としたおまんの豆が落ちている。だが、もう一方の道には豆が落ちていない。

怖れがなかったといえば嘘になる。しかし、私は豆の落ちていない道に向って一歩、二歩、進んでいった。もう、豆を落とすことはしなかった。そんなことをする必要はもうないのだと、不思議と了解されたからだった。

 

……それから幾年経ったのだろう。私はわいせつ箱職人として、隠れ里で忍び暮らしている。詳しいことは書き残すことはできない。私はいま、役小角が開いたという寺でこの覚書をしたためている。わいせつ箱がいったい如何様なものであるか、それすら書くことはできない。ただ、私のようなものが、鎌倉幕府よりはるか昔よりここに迷い込み、あるいは必死にたどり着き、伝統を受け継いできたということだ。私もずいぶんと老け込んでしまった。私の跡を継ぐものが、あの道より現れることはあるのだろうか。あるのだろう、あってほしい。この里で欲という欲にまみれ、欲という欲を捨て去った私に残された願いがあるとすれば、そればかりである。

 

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