石牟礼道子 言葉の階段を降りていった人

 

完本 春の城

完本 春の城

 

  「ななが嫁にゆく時は、この形見をばゆずるゆえ、なあ」

 うららかな声まで死んだおのぶにそっくりである。

 見送りに来た近所の年寄りたちが、空を見上げながら言った。

 「よか嫁入り日ぞ。この分なれば、早崎の瀬戸も凪じゃろうよ」

 おかよは振り返って、我が家のほとりを見まわした。家の前の苔むした石橋の脇に、紅色のまざった卯の花が咲きはじめていた。丁寧にくしけずった長い髪の、肩のうしろあたりを、叔母が金銀の水引をかけてまとめてくれた。ゆたかな頬に切り下げた鬢の毛が清々しく、唇にはぽっちょりと紅をつけていた。おかよはまだ青い杏の実に目を止め、祖母を振り返った。

 「もうじき、杏の実の熟れるわなあ、ばばさま」

 「ああ杏かえ、また塩漬けにしておこうぞ」

石牟礼道子がいかなる文学を描いてきたのか、到底おれに語れる代物ではない。おまけに、おれは貧乏だから、おれの手元にあるのは『春の城』一冊だ。その一冊から上の文章を引用した。引用しながら感じる。これはとまらない、と。放っておいたら、一冊まるまる引用してしまうかもしれない。そのくらい、石牟礼道子の文章には人をとらえて離さないところがある。

もし、石牟礼道子=水俣病に関する運動家、という見方をしている人がいたら、とてももったいないことである。他ならぬチッソに勤めていた祖父を持つおれがそういうのだ。石牟礼道子は言葉の深いところまで降りていき、そこで掴んだものを持ち帰ってきた人である。おれは高卒だしむつかしい文学のことや文法や文体のことなどわからないのだけれど、そう思えてならないのである。

単に、その地方の言葉を忠実に再現したというわけでもない。さらには、人々の芯の言葉を書き表したというだけでもない。もちろん、それらはそれらですごいことなのだが、石牟礼道子はもっと深いところまで降りていったのだと思う。それが本人にとって意識的であったのか、あるいは巫女的な感性を持って掴み取ったのか、おれにはわからぬ。わからぬが、あそこまで言葉というもの、文章というものを突き詰めた人というのは少ないように思う。それは、「名文家」としてふつう名前があがる文学者たちのそれとは少し違うようにも感じる。その違いが石牟礼道子なのだな、とおれは勝手に思っている。

言葉の階段を降りていった先は、この世ならざるところかもしれない。おそらくはそうだろう。この世とこの世ならざるところを重ね合わせて、石牟礼道子の世界はある。しかし、それは紛れもなくわれわれが生きている世界でもあり、われわれが忘れている世界でもある。石牟礼道子の世界にわれわれが降りていくとき、われわれは二重写しになった世界を歩んでいくのである。かんたんな二項対立のない、不思議な世界へと。

 

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石牟礼道子の話をするのに「ビクトー・ベウフォート」という名前から書き出すのは世界中でもおれくらいじゃないかと思った。

 

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