沢木耕太郎『敗れざる者たち』を読む

 

敗れざる者たち (文春文庫)

敗れざる者たち (文春文庫)

 

 ハードリドンの子、ロングエースに。テスコボーイの子、ランドプリンスに。セントクレスピンの子、タイテエムに。ヒンドスタンの子、ハクホウショウに。ロムルスの子、ランドジャガーに。生まれてから今日この時まで、お前が追いつづけてきた相手のすべてが、目の前にいるのだ。さあ、決着をつけようではないか。"たった一度"のこの時に"追いつき"そして"追い抜い"てやるがいい。その時、お会えの追いつくだけの人生はかわるのだ。

 イシノヒカルは、長い直線を必死に走った。差はつまらない。

 

-「イシノヒカル、おまえは走った!」

イシノヒカル日本ダービーに敗れた。しかし、同年の菊花賞有馬記念をぶっこ抜いて年度代表馬に選ばれている。日本ダービー有力馬の厩舎で寝泊まりしての取材、という特別な状況はあったろうが、しかし、結果として沢木耕太郎が描いたのは敗れた馬の話である。ちなみに、この章に名前が出てくる「洋一郎君」とは浅野洋一郎調教師のことであろう。ミナモトマリノス浅野洋一郎。再婚による連れ子である。

 「――その芹沢博文が、あるとき、激しく泣いた。芹沢が屋台のオデン屋で飲んでいて、急に涙があふれてきたというのである。

 その時、芹沢は、突如として、

 『ああ、俺は、名人になれないんだな』

 という思いがこみあげてきたのだそうだ。」

 山口瞳が『血涙十番勝負』で書いている。

 ある日、カシアス内藤もオイオイと声をあげて泣いたことがある。人気絶頂の頃、ボクシングをやめたいといって吉村の家に来て激しく泣いたという。吉村はその理由がよくわからなかった。彼は、もしかしたら、自分もついには"名人"にはなれない人間だと、知ってしまったのではなかったか。

 

- 「クレイになれなかった男」

さて、おれがこの本を手に取ったのは、『一瞬の夏』から遡って沢木耕太郎カシアス内藤の物語を読みたいと思ったからだった。そこに、山口瞳の『血涙十番勝負』と芹沢博文の名が突如として現れた。おれは面食らった。おれが『血涙十番勝負』を読んだのはいつだったか。中学生か、高校生の頃だ。芹沢博文がこの世を去ってからしばらく経ったときのことだろう。おれはこの引用を読んで、「おお」と思った。そうか、カシアス内藤芹沢博文だったのか、と。

エディ・タウンゼント曰く、コーチをしてきて一番うまかったのは「内藤ね。内藤はほんとうにうまい。足がよくて、眼がいい、世界一ね」。また、もっとも素質があったのはだれかといえば「それはもちろん……内藤ね」。

しかし、「でもね、内藤、ガッツがない。海老原、左が折れても右でやります。死ぬまでやる」なのである。そこに名人に、世界チャンピオンになれるものとなれないものの違いがある。

 《そうさ、もし君が試合の前に書いた物を発表するんだったら、嘘をつき通さなきゃならない。柳陣営には日本語のわかる奴が多い。マスコミのほんの些細な文章からでも、こちらの作戦を見抜いてしまうだろう。だから逆に嘘をつき通し、彼らを欺き通すのさ。それにはまず日本のマスコミから騙す》

 先程のテレビのインタビューも演技だった、と輪島は顔の表情ひとつ変えずにいった。疲れ果て、舌がもつれ、苦しそうに喋ったのも、恐らくそれを柳も見るだろうということを計算においての嘘だった、といった。

 《笑ってくれてもいいけどさ、そうしなくちゃならないんだ。調子のいい時代にはそんなことまでする必要なかった。でも、こんなふうに下り坂になると……》といって、しばらく間をおいた。

 《勝つためには、そのくらいしなくちゃ駄目だ!》

 

-「ドランカー〈酔いどれ〉」

輪島功一、世界チャンピオンである。これが、天賦の才ばかりではなく、王者になれるものの究極のところだろう。カシアス内藤にはそれが足りなかった。そのひと言で片付けてしまうのは簡単だ。だが、カシアス内藤だって戦ったのだ。敗れざる者なのだ。ただ、そこには二つの意味が込められていて、戦って燃え尽きたがゆえに勝敗では敗者であっても「敗れざる」者なのか、燃え尽きることがなかったがゆえに「敗れざる」者なのか。

 以前、ぼくはこんな風にいったことがある。人間には"燃えつきる"人間とそうでない人間の二つのタイプがある、と。

 しかし、もっと正確にいわなくてはならぬ。人間は燃えつきる人間と、そうでない人間と、いつか燃えつきたいと望みつづける人間の、三つのタイプがあるのだ、と。

 

-「クレイになれなかった男」

おれはどうなのだろう。そうでない人間だ。望んでいるのか? 望んでいるのかもしれない。しかし、やはりその舞台はやってこない。そのいつかはやってこない。そうして、ただ老いて、後悔だけを残して死んでいくのであろう。芹沢や内藤のように泣くこともなく、燃えつきることもなく、勝ちも負けもない価値なき日々を、ただいたずらに過ごして……。

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血涙十番勝負 (中公文庫)

血涙十番勝負 (中公文庫)

 

 

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沢木耕太郎も本書「さらば、宝石」で榎本喜八を描いている。