宮崎哲弥×呉智英『知的唯仏論』を読む

 

知的唯仏論

知的唯仏論

 

知的な営みにおいて対談やら問答というものは、わりと大切なことなのではないかと思う。対談者にとって得るものがあり、また、疑問多き第三者である無知なる自分にとって、その問いを待っていた、答えを待っていた、ということが往々にしてあるからだ。ある賢者の語る直接の文章は尊い。ある賢者の文章にしなかったこと、行動を書き記した随聞記もありがたい。その上で、その賢者なりなんなりについて、己が見解をもってぶつけ合い、教え合う対談やら問答というのは面白い、ということである。ただし、格闘技やプロレスと同じく、マッチメークは重要である。分野が違いすぎてまったく接点がなかったり、ある程度同じ土俵に立っていても、あまりにもテーマについての知識や理解度が違いすぎたり、あるいは両者の信仰の域に入ってしまったりすると、成り立たなくなることもある。

と、いうわけで宮崎哲弥呉智英の仏教に関する対談である。おれにとっては呉智英の方が若い頃に読んでいた評論家であって、儒教という現代社会において特異な価値観から社会を切るところにけっこうな影響を受けたと言っていい。一方で宮崎哲弥といえば、やはり評論家として知ってはいたが、どの分野が専門なのかよくわからず、その思想もよくわからず……という程度であった。著書も読んだことがなく、この間、佐々木閑との対談本で「仏教にも明るい人だったのか」と思ったくらいである。

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そして、その宮崎哲弥呉智英を唯一の「評論家としての師匠」としていることは、本書で初めて知った。

まあいい。呉智英が仏教の本を出しているのは知っていたが、おそらくは原始仏教などについて宮崎の方が詳しいというのはあるだろう。というか、呉智英はあくまで仏教の外の人間であると自覚しており、その立場は崩さない。宮崎哲弥はナーガールジュナの中観派と自らを述べているが、それもやはり「信」の構造の外にあるようにも思える。どちらかというと、呉智英アウトボクシングで「これはどうなの?」と宮崎に問いかける、という印象であった。

 ……仏画でも、お釈迦様だけパンチパーマで弟子たちはスキンヘッドなのはおかしいじゃないか……

 まあ、こんなのはちょっとした戯れ言だが、宮崎曰く。

宮崎 そういう懐疑的態度、ないし批判的態度というのはとても大切で、むしろ仏教の本旨にそぐわしいものです。ブッダは初期経典で、自分が口にしたどんな清らかで明瞭な見解にさえしがみついてはならない、と弟子たちを戒めています。あらゆる教説や構想は疑われ、吟味されるのが当然で、ブッダ自身の言葉だからといって宝物のように扱ったり、執着すべきではない、と。

このあたりが、仏教らしさ、なのかもしれない。とはいえ、我が日本国の独自の大乗仏教は、ある経典を信じる、ある念仏を信じる、ある仏を信じるというところに行ってしまってはいる、というところはあるだろう。そこでさらに、「いや、実のところおれもあんまり信じられねえんだよ」というところまで行ってしまったのが親鸞、というのは言いすぎだろうか。

まあ、ともかく、仏教には倫理がなくて論理がある(というのはだれの言葉だったか)、というのは根本である。とはいえ、習俗的な信仰や穢れと無縁でいられなくなるというところもある。

宮崎 ちょっと前に『スーパーセンス』という翻訳の一般向け心理学書を読んで、なるほどなあと腑に落ちたことがあるのです。著者はブルース・M・フード。(中略)内容はいたって「科学的」で、「人はなぜ超自然的なパワーに惹かれ、それを信じてしまうのか」という心理的メカニズムを説き明かした本です。

「殺人鬼のカーディガン」というネタが紹介されていて「十分な科学教育を受けた人であっても、殺人鬼が愛用していたカーディガンを着るのを嫌がるのはなぜか」が問われる。(中略)殺人者の持ち物に罪業が付着しているように感じてしまう。こうした「穢れ」の観念は、日本文化に特有の、後進的要素と見做されがちだったのですが、実はそうじゃなかった。

その本によれば、迷信や験担ぎなんかは先天的に脳に作り込まれているものらしい。というか、『スーパーセンス』読んでみようかというメモね。

 

スーパーセンスーーヒトは生まれつき超科学的な心を持っている

スーパーセンスーーヒトは生まれつき超科学的な心を持っている

 

あとはなんだろうね。そうだね、意外な人物の名前が出てきたね。

宮崎 ……秋月龍みんのような禅師が「即今(いま)・此処(ここ)・自己(わたし)」のみを現実とせよと戒めた。だから仏教は「この私」を避けがたい運命と認めるところからスタートする。

秋月師の名前が出てきた。おれはものをたくさん覚えるのが苦手なので、「八正道」などと言われるとキャパをオーバーしてしまうが、三つならなんとか覚えられる。だから、秋月師の「いま、ここ、じこ」の三つは頭の中にある。これを突き詰めろよ、と。宮崎によると、これはスタート地点だという。あくまでもスタートであって、そこから入って、それすらが虚妄の主観であるという結論に出ることが仏教だという。せいぜい「自己」なるものは「不断に縁起し流動する世界の淀みや泡沫」だと。なるほど。エゴから始まり、エゴの解体を目指す。ふむ。

宮崎 ……レヴィナスのいうように世界の成り立ちや構造が論理的に説明がつき、自己の認識に基づいて定位され、操作すら可能になったとしても、必ず残余がある。そして、その残余こそがぎりぎりにまで刈り込まれた「この私」であるとするならば、「この私」は世界に外在する力――他者によってしか救済されない。根拠づけられもしない。救済されないということはここでは根拠づけられないことと同義です。唯物論構造主義はこれに対する端的な答えを持っていなかった。そこで西欧では実存や外部性が問題になっていったのです。

残余こそが自己である、って最近どっかで読んだな。

第1回:西部邁の死と「工学化」する保守 - 平成30年論 | ジセダイ

 「工学化」という「合理」に対抗し得るのは、どこまで人や世界を工学的に再構築し、そして数式化しても、しかし、そこには必ず「残余」がある、ということを信じることである。ぼくは「文学」などAIでも書けるし書いてしまえばいいとうそぶくが、しかし当然だが、そこに「残余」がある、と信じるからである。その「残余」を探し出すことが「批評」ではないのか。だから西部の合理性のある死の理由にぼくは釈然としないのだ。

 いきなり大塚英志による西部邁自裁についての話になってしまったが、「残余」というのがなにかしらのキーワードなのかという気にもなる。『攻殻機動隊』でいえば「ゴースト」ということになるのだろうか(違うかもしれない)。そして、その残余すら、縁起によって生じた緩やかな同一性があるかないかというのが仏教なのか、あるいは救済するものがあるとして、なぜそこに固有名詞である神の名が必要とされるのか。これは考える必要があるように思える。しかし、おれは西洋哲学など入門すらできんほどわからんというか、わかる気がしないのであって、頭をガツンとやって妙好人にでもなろうかというところ(妙好人に失礼)。

 とはいえ、それも境地よな。でも、それを伝えるのはやはり浅原才市の言葉を書き留めたものであったりして、やはり言葉にとらわれる。

宮崎 ……『中部経典』(マッジマ・ニカーヤ)にみえ、金剛般若経にも引用されている有名な「筏の喩え」ですが、ブッダによれば、筏を組んで川を渡り終えたときには、もはやその筏は邪魔な荷物なので捨てて行くべきであるように、どんなに素晴らしい教えであっても暫定的な真理にすぎず、不要になれば惜しげもなく捨て去るべきである、という。

 これは宗教の開祖としては異例の指示だと思います。むしろ自然科学者や工学者、プラグマティストの言に近い。ブッダはドグマというものをまったく認めなかった。なぜなら、ドグマは畢竟言葉であり、言葉は苦の原因たる実態視の弊を免れないからです。

 ところが、この開祖の周到な戒めを多くの弟子たち、仏教徒たちは破り、開祖や宗祖の言葉をドグマ化し、永遠不変の真理と思い做すようになった。

これに対し、呉智英禅宗の中に釈迦の仏教の原理が生きている、先祖返りしているのでは? という。不立文字、直指人心というやつか。で、宮崎はそれについて、禅は体験を実体視してしまうと答える。拈華微笑(これは偽典というのが定説らしいが)は認めない、というか、本質ではないというところだろうか。あくまでノー神秘主義、ノー神秘体験、というところを説いている。

おれとて、神秘体験には縁遠く生きているが、そう言われてしまうと困るといってはなんだが、知的活動というもので行くところまで行くなんて無理じゃあねえのかって思えてくる。それこそ、一発雷に打たれて頓悟したいみたいな。つまりは、野菜350gは食えても、瞑想だの座禅だのヨーガだのもする気がないという。そして、横着者も掬って(救って)くれよな、などと虫のいいことを考える。無私ではなく虫だ。いやはや。

でも、虫のいい話が好きな人間が多いからこそ、大乗仏教なんてものが生まれ、正確な数字はしらないけれど、上座部仏教の信者(出家者)より数では多くなっちゃってる。そんなところはないだろうか。やっぱ人間、楽したいのよ。無明よ。……という「楽」すらも「苦」であるという認識から釈迦の仏教は生まれたのだろうが。一切皆苦よな。

まあ、その釈迦ですら、「目覚めた」あともいきなり布教しはじめたりしなかった。

宮崎 ……面白いのは、梵天に説得されるまで、ブッダの態度がひじょうにエゴイスティックでとても独断的にみえることです。だって「自分の得た悟りは微妙で深遠なので、煩悩と執着に塗れて自足している世間の連中たちには到底理解しがたい。そこを何とか理解させようと試みても、徒労に終わって自分が傷つくだけさ。そんな無益な苦労をするのは私は真っ平ごめんだね」というのですから(笑)。

梵天勧請のあたりの話である。おれには仏教にいくらか関心を持った最初に疑問に思ったことがあって、それは真言密教あたりの話なのだけれど、もし仏教の教えというものが世界中の人間に行き渡って、皆が皆出家してしまったら、世界はどうなってしまうのか? ということだった。それに対する答えが親鸞であり、あるいは盤珪だったり、生活の中の禅を唱えた正三だったりするのかな、などと思っていたわけだが、そもそもが「耳ある人は聞け」なのであって、皆が皆ということはねえよ、という前提があるのだな、とこのごろ思うようになったのだった。あとはなんだ、仏教が無我である以上、本当の自分、「赤肉団上の一無位の真人」という考え方は原始仏教とぶつかるのかな、とか思った。とりあえずは、以上。