先に読んだ『ここにしかない原典最新研究による本当の仏教』は、原典に対して最新の研究を用いて(そのまんまやな)、釈尊の説いたこと、行ったことに迫ろうというものであった。
一方で、テーラワーダ仏教、上座部仏教のスタンスというのは、自分たちこそが釈尊の教えをそのまま引き継いで二千五百年やってきたのだから、まさに釈尊の教えそのままである、というスタンスといえようか(違ってたらごめん)。大乗仏教や中国化、日本化せずに、そのまま伝わってきたのだから、原点回帰するまでもなくテーラワーダこそが原理である、と。
実のところ南伝仏教かてオリジナルのままではないよ、という話もあるらしいが、まあいい。なんというか、日本化した大乗仏教の仏教観しか知らない(あるいはそれすらもしらない)おれのところに、上座部仏教が来ましたよ、というところがいい。なにせ、世界史の中の単語だからだ、上座部仏教。そういうわけで、対談本に続いてアルボムッレ・スマナサーラ師(……って本読んだだけで「師」とかいうのも変だけど、なんとなく「師」とか「老師」とか付けたくなるお名前ではある)の著書を読んでみた。ちなみに、アルボムッレ・スマナサーラさんには膨大な著書があって、なかにはなんかおれがまず読まなさそうな意識高いビジネス本みたいなのもあったりして、でもまあこの本は「ブッダの教え」について絞ってきているのでよかったです、はい。
では、まず冒頭から。
私が日本に来てから二十五年以上経ちますが、テーラワーダ仏教、上座部仏教という特別な宗派仏教について説明しようと思ったことはありません。
これである。この自信。とはいえ、そうでなくては仏教とは言えないような気もする。怪しげな新興宗教を除いたら、いろいろの宗派の開祖たちも「自分こそがブッダの教えを正統に継ぐものだ」と言ってきたことだろう。「プラスアルファして超すごい仏教にしました!」とかいうやつは、まああんまり信用できないかもしれない。とはいえ、原始仏教からしたら、勝手にたくさん菩薩だの如来だの作っちゃって! くらいには思ってるかもしれない。大日如来とか、もうあらゆる世界線に同時に存在するくらいのすごくすごい存在だかんね。
それはともかく、釈尊(……元ゴータマ・シッダールタさんのこと。いろいろな呼び名があるけど、とりあえずなんとなくこちらの表記でいくことにしてます)の教えとはなにか。
お釈迦様が教えたのは、私たちが見過ごしている、しかし私たちが幸福になるために絶対に欠かせない「心の科学」というものでした。科学というからには、ちゃんと実証できる、証拠を出せる、実験もできる教えです。その教えによって、幸福になることもできるものが、元々のブッダの教えであると理解してほしいのです。
Lesson1 ブッダの教えは心の科学
幸福になれる……科学? 幸福の……ゲフンゲフン。とまあ、こういうわけであって、唯一神の信仰の構造とは違うぜ、と高らかに宣言しているわけなのであります。神仏混淆で、なにやら神様仏様稲尾様となってしまうこの日本、でも、ちょっとでも仏教に興味を持った人ならば、すぐに「宗教っちゅうより哲学じゃないのか?」と思うだろうし、もうここでは「科学」と言い切っちゃっている。
で、次に……。すごく下らないところにチェックを入れてて、ブッダの教えとはちょっと離れるけど引用しておこう。釈尊よりちょっと年上に、ジャイナ教の開祖であるニガンタ・ナータプッタという宗教家がいた。そのニガンタ・ナータプッタの死後、弟子たちが喧嘩を始めたという。
その結果として、二つの宗派に分かれてしまった。片方のディガンバラでは、出家者は一切衣をまとうべからずと主張した。もう一方のシュヴェーターンバラはほんの少しだけ白い服をまとって、陰部などは隠したほうがいいと主張した。ジャイナ教には、今もその二派が別々の教団を作っています。
Lesson2 仏教を「宗教」から開放する
ちなみにニガンタ・ナータプッタさんは無所有の実践としてずーっと裸だったらしい。高知市の職員もゴミ捨てのときだけではなく、ずーっと裸ですごして「これは信仰の自由だ」と言い張ればよかったのに。ちなみにWikipedia先生でジャイナ教を調べてみると「白衣派と裸行派」という項目があって、ここに書いてあるとおりのことだった。さらに言うと、両派にあまり教理上の違いはないらしい。
釈尊はニガンタ・ナータプッタさんが曖昧な教えをしたせいでそうなった。私は明確で論理的な解脱の方法を教えるので、絶対に分裂するなよ、と説いたらしい。が、分裂しちゃいましたよね、と。
でも、いいんです。
仏教には、信仰する人と信仰しない人という区別さえもないんです。ブッダが質問するのはただ一つだけ。あなたが悩んでいるのなら、苦しんでいるのなら、その解決法を教えましょう。それだけです。
Lesson2 仏教を「宗教」から開放する
大乗も小乗も利他行も自利行もなし。宮崎哲弥と佐々木閑の対談本で病院のようなものだとたとえていたし、まず自らが病気であると知ることが始まりである、みたいな言い方もするし、まあそういうものなのだろう。悩んでいなくて、苦しんでいない? ならべつにいいんじゃねえの。
で、そういう「期待を叶える四つの方法」があるという。釈尊がアナータピンディカ居士に説いたという。
- 納得すること
- 道徳を守ること
- 分かち合うこと
- 智慧を持つこと
この四つ。
納得することというのは、「信という財産」を持つこと。想像上の神や如来や菩薩を信じるということではなく、理性を持って自分の歩む道に自信を持つことだという。だから、信仰ではなく「納得」。でも、「在家の仏教徒には、お釈迦様が完全な悟りを得た正自覚者であると徹底的に信じることを推薦しているのです」とか言ってて、「とにかくブッダを信頼して真理であると認めるのです」と。このあたり、やはり出家者と在家でステージが違うぜ、方便が違うぜ、ということなのだろうか。
道徳というと、日本人が嫌いとされる「戒律」であって、不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒の五つ、とりあえずこれ、ということになる。でまあ、酒飲みのおれが思うに、酒って偉大だよな。仏教が生まれたのは二千五百とか二千六百年前だぜ。それなのに、酒はアカンってなってる。もうそういうことになってる。酒は勝手にそこらに湧き出てるものでもなく、人の手でつくられるものだ。それがもうしっかり根を張っていて、しかも世界宗教に「よくない」とか言われてる。酒の歴史というものをちょっと勉強したくなるくらいだ。
酒は脳細胞を破壊して、人間の理性を失わせる毒薬です。理性とは、輪廻の海でおぼれ苦しむ生命に、唯一与えられた「浮き輪」のようなもの。酒に依存することは、その唯一の浮き輪を、自分から破って捨てるような愚かな行為なのです。
Lesson4 期待を叶える四つの方法
うおー、上等じゃねえか、浮き輪無しで泳いでやろうじゃねえか。もっともおれは平泳ぎしかできないけどな。
あとはなんだろうね、そうだ、おれは仏教というものにはじめて触れた(もちろん読書という形で)ときからの疑問があって、みんなが出家したり、不邪淫を守ったりしたら、人類社会というものが立ち行かなくなり、やがて消滅するのだけれど、それでいいのだろうか、ということだ。おそらくはいいのだろうが、上座部仏教ではそこんところはある意味で切断している。
在家には性行為は禁止していません。仏教では性行為は、子孫を作って育て上げるための、責任重大な行為だと理解するのです。性を遊び道具にして「自分の落とし穴を自分で掘る」ことをしません。
Lesson12 仏教と性道徳
自分で穴を掘って、その穴に……(以下略)。あ、宮沢賢治にそんな話なかったっけ。すごい勘違いだったらごめんなさい。
人間は見るものにも気を付けたほうがいいのです。見るものに執着すると、依存して自己破壊になります。音も、香りも、味も、感触も、、気を付けたほうがいいのです。しかし五根からの情報に依存するのは生き物が必ずやっている行為であって、それを止めろというのは、死ね、ということになります。それでは意味がないのです。
依存を完全にカットするのは解脱です。仏教では「死になさい」ではなく、「生を乗り越えなさい、死を乗り越えなさい」と言うのです。生死を越えて解脱する。そのための手段が、瞑想修行になるのです。
Lesson12 仏教と性道徳
あと、運動と野菜と……。とはともかく、「疾く死なばや」ではないんですよ、と言っている。日頃から日常的な意味でも死ぬしかないと思い、仏教の本に触れても「結局死ぬのが一番では」と思ってしまうおれなのだが、アルボムッレ・スマナサーラさんはそうではないのだと言うのです。うーん。
生きたくない、と思う生命なら、努力して苦労して生きる必要はないのです。そのような生命は喜んで自殺を考えるでしょう。でも問題は、自殺の瞬間まで、その生命が苦労して生きてきたということです。いろいろな問題に出会って、発作的に、自殺という判断を下してしまうだけです。
Lesson14 なぜ殺してはならないのか
酒と精神疾患による脳細胞の破壊→理性のブレーキの損壊→発作的自殺。説明がつく。科学的かもしれない。
で、なぜ殺してはいけないか、は大きな問題のようで、次のレッスンに続く。Q&A形式になったりしている。漁師、畜産業、害虫駆除をする農家は「不殺生戒」を守れないのではないか、などなど。
心とは、生きている上で汚れます。どのように汚れるか、なぜ汚れるかを正直に観察すると、智慧が現れてきます。智慧が解脱の引き金になります。人が生きているのだから、社会から離れても、離れなくても「自己観察」さえすれば、それが悟りの道になります。
Lesson15 対話を通してさらに考える
これはあれだな、サンスカーラだな、うん、知らんけど。
長くなったので……あとちょっと。
贅沢に耽ってはダメ。苦行もダメ。ではどんな道を歩めばよいのでしょうか?
そこで釈尊は「中道」を説きます。「私は、極端行を止めて、どちらにも入らない中道を発見しました」と。この中道は左右の中間ではなく、まったく違う視点から答えを出した、という意味です。
中道=超越道と理解した方がよいのです。これは釈尊によって初めて発見された道、眼が現れ、智慧が現れ、こころの安らぎ、超越した智慧、覚り、涅槃に到達する道なのです。
Lesson20 聖なる中道を求め
その道とはどんな道。八正道。……Wikipediaでも読んでね。
「四聖諦」の真理で考えてみましょう。少なくとも、「生きるとは苦」という苦聖諦や、「苦の原因は渇愛である」という苦集聖諦は、自ら調べて理解することができます。推測によって、「渇愛が滅することで苦が滅する(解脱する)」という苦滅聖諦も、理解が成り立ちます。解脱という真理を経験するための苦滅道聖諦(聖八正道」は実践方法なので、自らやってみるしかない。聖八正道のどこにも、「信仰」の出番はありません。
他宗教と仏教の異なる特色は、「自ら確かめる」ことにあります。仏教では、「信仰」は決定権を持っていないのです。ブッダは「信仰」ではなく、「自ら確かめる」ことを説くのです。信仰で仏教徒になるという人というのは、仏教の真理の立場から見ると、なんとなく仏教を信じているという浮動層に過ぎません。
Lesson23 信仰には立場がない
本当に「信仰」の出番はないのだろうか。上の方で「在家には……」みたいなこと言ってたしな、とか。方便というものだろうか。そしてなにやら、上座部の本音がちらり、という気がしないでもない。まあそれもいいだろう。おれは酒をやめんぞ。そして、脳細胞が破壊され尽くしたところで、真っ白な世界に行くだけのことだ。地獄も信じたりしないのだ。以上。
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