池澤夏樹『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』を読む

 

ぼくたちが聖書について知りたかったこと (小学館文庫)

ぼくたちが聖書について知りたかったこと (小学館文庫)

 

 信仰は魂に属するが、宗教は知識である。

本書の前書きはこの一文で始まる。首肯するしかないではないか。そんな気になった。おれの興味や知識は仏教の表層を撫でるだけだが、キリスト教となるとさらに遠い。ヘブライ語聖書も、新約聖書もいくらか断片を読んだような気がするだけだ。おれの書くものについて、キリスト教的なものがあるとおっしゃった人もいるが、おれにとって聖書は遠い。だが、知識は得たい。たとえば、こんなタイトルの本によって。池澤夏樹と、その縁戚にあたる聖書学の泰斗、秋吉輝雄との対談本によって。

して聖書とはなにか。というか、聖書という書物とはなにか。

池澤 ……彼(引用者注:イヴァン・イリイチ)に言わせると中世のある時期にコデックス(引用者注:紙葉を束ねた冊子本)にページ番号や小見出しがつき、それからインデックスが作られるようになった。つまり、最初一本のひも(引用者注:長いままのテクスト、巻物)だったものが、まず折り畳まれて、ページにおさめられて、だんだんカード化していく。その変化は読みをも根本的に変えてしまう。人はそれまで音読していたものを黙読するようになった。読書という行為の中身がすっかり変わってしまった。言い換えれば、祈り的なものが帳簿化され、巻物にまで残っていた朗誦の聖性も失われた。それが中世から近世への移行ということだったというわけです。

 その変化の最終的形態が、ウィキペディア、インターネットの百科事典だろうとぼくは考えています。

とある魔術の禁書目録……は関係あるのかないのかわからないが、語られることから読まれることへの移行、暗唱、朗読から黙読への移行、これは、えーと、なんか、いろいろあるはずだ。そして、コーラン(本書では「クラーン」)は「朗読されるもの」という意味であって、たしか黙読すべきものではないはずだ。「旧約」(かぎかっこ付きね)の律法(「ミクラー」)も同じ意味だという。

そして、古代ヘブライ語には「過去形がない」という。ギリシャ語に訳されてはじめて時間が軸が導入された。だから、本来は「神は天地を創造された」ではなく、「神は天地を創造す」となるという。「光がある」のだという。このあたりの時間の観念について、ユダヤ人のそれを理解するのはなかなかむずかしい。というか、ギリシャ人にとっても自分たちの観念に訳してしまったのだから、遠い日本というバックボーンを持つおれにとってわかるはずもない、のかもしれない。

本書で初めて知った名前もある。その一つがマルキオンだ。

秋吉 そうですね、それからしばらく後、コンスタンティヌス帝によるキリスト教に対する寛容令(三一三年)が出される以前の二世紀に、キリスト教会内で、初めて聖書の聖典化という概念を打ち出し、自ら聖典編纂をおこなった人物がいました。それがマルキオンという人物です(一三八年頃ローマに出、一四四年破門されて自派、いわゆる「マルキオン教会」を広める)。彼の主張は非常に大胆なもので、律法、預言書を旧約聖書としてキリスト教のなかに位置づけることに真っ向から異議を唱えたのです。キリスト教の背景としてのユダヤ教を断ったわけです。

マルキオン - Wikipedia

のちに異端とされたマルキオンの聖典化という行いに対抗する形で、聖書が成立していった。これは面白い。マルキオンにはグノーシス思想との関連もあるようだが、まあいい。

して、「原罪」について。

秋吉 人間はよきものなのだけれども、知恵の木の実を食べてしまったのだから、際限なく知りたがる。そうなると知ること自体苦しいわけですね。だから知ることの罰則として苦しみが与えられた。異性を知ることを含めて、知識欲はすべて代償を伴う。それはいいのですけれど、しかしそれが原罪だとぼくは思いません。原罪というのは、キリスト教の用語で、ユダヤ教では原罪と言わないと思います。しいて言えば、生きるべく造られていたにもかかわらず、死を選んでしまった、ということですね。これがぼくの原罪の理解なのです。知恵を得て、死を宿命づけられ、エデンを追われた人間。エデンならぬ現世では死ぬ者として行きなければならない。この宿命が原罪だと思います。

こんな考え方、はじめて知った。あるいは、どこかで目にしていたのかもしれないが、気づいていなかった。

聖書のなかで「キリストは罪ある方となれた」(コリントの信徒への手紙二」5章21節、大意)と言ってるわけですから、イエスが死ななければキリストにならないという矛盾のなかに、キリスト教という宗教はあるわけです。だから人間イエスとして生きずに神の子として生きていたのだったら、死なないでいいわけです。人間として人間の苦しみをもって死ななければ、あの宗教は出てこない。

そうだったのか、キリスト教は、あるいはキリスト教も、人間としての苦しみのなかから出てきたものだったのか。

以上が第一部「聖書とは何か?」からの断片。第二部は「ユダヤ人とは何者か?」。

秋吉 ……だから、たとえばイエスを裏切ったとして有名なユダにしても、ユダヤ人の間ではユダという名前はごく普通の名前で、同名異人の多くのユダが存在するのですが、そのことすら通じないところまでキリスト教は広がっていく。ユダの裏切りも、その名が由来するユダヤ民族一般と同一視されて、これがまず一つの他者から見るユダヤ人像となり、ユダヤ人=裏切り者という構図ができあがる。……

池澤 偶然の一致にすぎなかったユダとユダヤという名称の重なりが、そのままキリスト教徒のユダヤ人憎悪につながった。

秋吉 キリスト教の広がりのなかで、ユダという固有名詞が個人を超えてユダヤ人集団と混同されたところに、ユダ個人と後のユダヤ民族の悲劇があったということです。

キリスト教の広がり」なんていっても、ぜんぜん初期の話だろう。そのころから、ユダヤ人の悲劇が始まった。

ところで、ユダについては本書後半で「ユダの福音書」について触れられている。

ユダの福音書 - Wikipedia

ユダの裏切りはイエスとのアングル(プロレス用語)があったという立場。ユダの裏切りなしにはキリスト教が成り立たなかったという見方。これはボルヘスの短編で知ったかな。「ユダについての三つの解釈」か「三十派」か、よく覚えていないけれど。もっとも、このユダ擁護の書は古よりあって、否定する文書から読み取れたり、「死海写本」や「カイロ・ゲニザ文書」、「ナグ・ハマディ文書」あたりにも記されているという。そこにはグノーシス主義との関連もあって、みんなだいすき『新世紀エヴァンゲリオン』やフィリップ・K・ディックの世界とも通じるところがある。が、これはとりあえず外典の話。

さて、ついこないだこんなニュースを見た。

「ユダヤ人国家」法、イスラエル国会が可決 批判相次ぐ

 イスラエル国会は19日、自国を「ユダヤ人の民族的郷土」と規定する法案を62対55の賛成多数で可決した。イスラエルの人口約880万人の2割を占めるアラブ系の国会議員らは「差別」と猛反発し、ヨルダンやトルコなど近隣諸国や欧州連合(EU)からも批判や懸念の声が出ている。

 地元メディアなどによると、「ユダヤ人国家」法は「イスラエルにおいて民族自決権はユダヤ人特有の権利」と定めた。ヘブライ語を「国語」とする一方、アラビア語は国内で「特別な地位」を持つとしており、格差を付けている。

ユダヤ人の国、イスラエル

池澤 先ほどの話で十二部族の正統な後継者はユダであるということでしたね。そうすると、「ユダ」というのが正統であるという意識があったわけでしょ。それが第二次世界大戦後に、自分たちの国をつくるときに、なぜイスラエルという名前にしたのでしょうか。

秋吉 新しい国の名をなぜ「ユダヤ共和国」とせず「イスラエル共和国」にしたのか。中世以来の蔑視を伴った呼称を避けるという意図があったのかとも考えてみましたが、やはり先ほど言ったように、背信のために滅ぼされてしまった兄弟部族の「負」の歴史を背負い、同時にユダ族に託された家名再興の使命、神の祝福の下にあった栄光のイスラエルを象徴する部族の全体像(全歴史)を表す名だったからと推測します。彼らには父祖に下された神の祝福は過去の出来事ではなく、現実のはずですから。

 ユダヤ教はそれを広めて信徒を増やそうという宗教ではない。先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブ=イスラエルに下された神の祝福に向かっていく。他の民族と混じらないようにしていく、民族を維持するという意図しかない、という。そして、今のイスラエルがある。ほんとうに気の長い話だ。だが、その時間的な長さというものさしも、彼らにとっては当てはまらないのかもしれない。「無時間の空間で対立するイスラエルパレスチナ」。

秋吉 ……聖書に描かれた古代の出来事の現代への有効性ということで言えば、千年間の時代を隔てた士師時代とマカバイ時代の物語を読み、その時代からさらに約二千百年後のいま、パレスチナで起こってることを考えると、あのころといまとが本当に変わっていないことがわかる。ですから、僕も問題の解決策を外から与えうるかという点については、懐疑的にならざるをえないんです。

アメリカのユダヤ人集団のロビー活動によるイスラエル援護についてあれこれ言っても、ともかく中東のユダヤ人については「基本的な思考の枠が違う」という。かといって、イスラエル共和国の暴虐について、ちょっとなにか言いたくなるところはある。あと、あれだな、時間という意味では、近代の戦争で聖書時代の戦術をそのまま活かしたなんて話もあったっけな。われわれ日本の風土とはあまりに違う砂漠の世界。

第三部は「聖書と現代社会」。ユダヤ教の戒律も抜け道があって、安息日に髭を剃ってならないとあるけど、電気カミソリがダメだとは書いてないから、それは許されるとか、まあやはり人間いい加減なところもある。

真面目な部分で言えば、科学との関係だ。

秋吉 …… 自然は造られたものだから、神ではない。だからそこへアポロを飛ばそうとか、正体を見てやろうとなるわけで、もし月や太陽が神だとしたら、そういうことはできない、してはならないことになる。そう考えると、自然科学を発達させる元になったのは「創世記」1章―2章4節で展開された宇宙観、自然観と言っていいかもしれません。

藤原新也がアポロ月面着陸のときにアラブにいたら、まわりのムスリムが怒り出したとかいう話があったと思うが、キリスト教徒にとってはしょせん神の被造物にすぎない(……でも、ムスリムにとっても聖書は……本来は聖典だったけど、歴史の中でそうは扱われなくなったのか)。そして、それらの支配を任されているのが人間だという感覚。このあたりはやはりこの日本という風土、文化のなかを生きてきた人間にはわかりにくい。わかりにくいが、科学を発達させてきたのはやはり西洋キリスト教社会である、というのはたしかなことだろう。自然(この言葉自体ヘブライ語にはないらしい)に対する見方が違う。

あとはなんだ、衣笠祥雄理論(極度の偏食で、魚が苦手で肉しか食べられない。下柳剛との酒の席では「野菜食べないで大丈夫なんですか?」と心配する下柳を「野菜は牛が食うとる」と一蹴したという)をこんなところで見るとは。

……遊牧民が肉を食べないはずはないのですから明らかな矛盾です。それを拡大解釈する人間もいました。羊だって草を食っている。だから羊を食することは一種の草食ではないか。狼のように動物を食べている獣は食べてはいけないが、草を食べて育ったものは、草の延長上だから食べてもいいという理屈です。

羊は草を食べてるからカロリーゼロ! 

とかいうのはともかくとして、秋吉の「原罪」の見解を再度ひいて、これを元にキリスト教を見ていこうかとか思う。それがスタンダードな見解かどうかしらんけど。

原罪というのは神の命令に背いたことだとみんな考えてますね。しかしそうではなくて、生きるべく造られたにもかかわらず死を呼び込んだことが原罪というのがぼくの考えです。だから罪の反対、罪からの解放というのは永遠に生きることで、それはキリスト教の贖罪論になっていくのですけれども、それはともかく、禁令を犯したことをもって原罪とするのではないと思っています。

 ああ、あとは、なんだ、「アダム以前に人はいたのか?」という話。アダムとエバという一対の男女から広がったのなら、禁じられている近親婚にならざるをえないのではないか? カインとセツの結婚相手はどこにいたのか? という話。そのあたり、べつに「他に人間はいなかった」という記述がないのだから、という解釈らしい。あと、最初に出てくる「アダム」というのは固有名詞でなく、人間という集合名詞だったとか。

あ、いや、なんかね、聖書いうんはまだまだエキサイティングな書物であって、教会なんかではインデックスされた、説教に適した部分ばかり語られるけど、そればかりじゃないぜ、雅歌もあるぜ、ということで、やはり興味深い書物なのだろうと思った。小学生の感想文の〆か。まあいい。以上。

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