「アルベルト・カエイロは私の師である」。この言葉はペソアの全作品の試金石である。更に付け加えて、カエイロの作品こそペソアの肯定する唯一のものである、と言うこともできるだろう。カエイロは太陽であり、レイスも、カンポスも、ペソア自身も、その周囲を公転する。彼ら三人の中には、ささやかながら否定的もしくは非現実的な要素がある。レイスは形式を、カンポスは感覚を、ペソアは象徴を信じている。カエイロは何も信じていない。ただ存在する。太陽は自足した生命である。
――オクタビオ・パス「自分にとっての他人」
というわけで、ペソアの詩集、いや、フェルなど・ペソアと彼の異名(エテロニモ)であるアルベルト・カエイロ、リカルド・レイス、アルヴァロ・デ・カンポスの一味(コトリー)、あるいは結社(セナークル……アントニオ・タブッキいわく)の詩集である。詩集といっても、このような形でペソアが編集し、発表したわけではない。膨大な量の遺稿から発掘され、彼らの代表作を集めたものである。
以下、引用は基本的に詩の部分。
ペソア詩篇
(わたしは何ひとつ…)
わたしは何ひとつしたことがない そうなのだ
これからもしないだろう だが 何もしないこと
おれこそわたしの学んだこと
すべてをする 何もしない それは同じこと
わたしとは なれなかったものの亡霊にすぎない
人は見捨てられて生きている
真理も 懐疑も 導師もない
人生はよい 酒はさらによい
愛はよい 眠ることはさらによい
「人生はよい 酒はさらによい」。いいことをいう。しょうもないところを引用するな? そんなこというな。おれには「詩人はふりをするものだ/そのふりは完璧すぎて/ほんとうに感じている/苦痛のふりまでしてしまう」というところから、「<わたし>ではないなにかが感じているもの、そのかんじられているそのものの顕現、表現でなく顕現の顕現……」(澤田直)とかいうむつかしいことはわからないのだから。ただおれはペソア・ウィルスに感染して、「酒はさらによい」という一言を我が物のように言うだけなのである。それに、人生がよいものかどうかはわからんのだし。
アルベルト・カエイロ詩篇
詩集<羊飼い>(抄)
考えることは 不快だ 強風で
勢いをます雨のなかを歩くときのように
……
わたしはキンセンカを信じるように 世界を信じる
それが見えるから しかし世界について考えはしない
考えることは理解しないことだから……
世界は考えられるようにはできていない
……
さて、ある日突然ペソアに舞い降りた、取り憑いた、現れた……なんといったらいいのだろうか、ともかく、彼の「師」となった(とペソアが言う)カエイロ。子供のころより異名者をつくり続けていたペソアにとって、特別な存在。必要であった存在。それがカエイロ。異教徒ではなく異教そのもの、というカエイロ。子供の目、見るということを……なんというのか、老師のような存在。あるいは、自然そのもの、永遠の子供……ようわからんよね。でも、一味の、結社のグルなのである。メタル・グル・イズ・イット・トゥルー。
リカルド・レイス詩篇
(恋人よ ぼくは祖国より…)
恋人よ ぼくは祖国よりバラを選ぶ
そして木蓮の花をさらに愛す
栄光や美徳より
人生がぼくを見放さないかぎり
ぼくは人生が通り過ぎるにまかせる
自分が変わりさえしなければ
すべてに無関心な者にとって
誰が勝ち 誰が負けようがどうでもよい
大切なことは 暁がつねに輝くこと
毎年、春とともに
新しい葉が芽生え
秋には落葉すること
……
リカルド・レイスは洗練された詩を書く禁欲主義者であり、自らを偽装するロマン派であり、古代風景を描く近代的な異教徒であり……って、やっぱりようわからんよね。
(わたしが憎み嫌うのは…)
わたしが憎み嫌うのは キリストよ おまえではない
おまえのうちにも わたしはより古き神々を信じる
彼らより重要だともそうでないとも思わない
ただおまえのほうが少し新しいだけ
……
うん、異教徒的やね。して、おれが好きなのは次の詩だ。すべて引く。
(わずかなものを望め…)
わずかなものを望め おまえはすべてを手に入れるだろう
何も望むな おまえは自由になるだろう
自らに対する愛ですら
多くの要求をなし 自分をさいなむことになる
ペソアお得意の箴言のような詩。最初の二行を背中に背負って生きていきたい。それは自分をさいなむことになるのだろうか。
(おまえの運命に…)
……
ひとりで生きることは甘美だ
単純に生きることは
どんなときでも 偉大で 高貴だ
苦しみは 祭壇に捨てよ
神々への奉納として
人生を遠くから眺めるのだ
けっして問い質してはならない
人生はおまえに
なにも語りはしない 答は
神々の彼方にある
ただ 心静かに
おまえの心の底で
オリュンポスをまねぶのだ
神々が神々なのは
自分のことを考えぬから
これなんか、いいよな。「神々が神々なのは、自分のことを考えぬから」。このあたりな。あとは、引用しないけど、「(こんな話を聞いたことが…)」のチェスの詩とかさ。あ、( )は詩の冒頭部分であって、タイトルも番号もなかったから、便宜的にそうしているもの、だと思う。
アルヴァロ・デ・カンポス詩篇
リスボン再訪 1923
いや 何もいらない
何もいらんと言ったじゃないか
結論なんて くそくらえだ!
死ぬこと以外に結論なんてあるもんか!
美学なんてまっぴらだ!
道徳なんて 口にしないでくれ!
……
アルヴァロ・デ・カンポスはわりと暴れん坊な感じである。エキセントリックで獰猛だ。獰猛な造船技師だ。わかりやすく近代的でもある。
煙草屋
……
おれは煙草に火をつけ これから書く詩を考え
煙草のうちで あらゆる思考からの解放感を味わう
おれは自分の歩む道であるかのように 煙を目で追い
感覚が研ぎ澄まされ 有能になり
あらゆる思弁からの解放を味わう
形而上学は不機嫌の結果にすぎないという意識を
それからおれは椅子のうえで伸びをして
煙草を吸いつづける
運命が許すかぎり おれは吸いつづけるだろう
(もしクリーニング屋の娘と結婚できるものなら
おれは幸せになることもあるだろう)
それから おれは椅子から立ち上がって 窓辺に行く
……
代表作である「煙草屋」。なにかこう、現代的ですらあるというか、いや、詩の歴史をしらんのでなんともいえんのだけれども。(もしクリーニング屋の……)は好きなところだ。おれはそういうところが好きなのだ。
勝利のオード
……
おおい デパートのファサードよ
おおい ビルのエレベーターよ
おおい 内閣改造よ
国会 政治 予算報告者
粉飾予算よ!
(国家予算は一本の樹と同じくらい自然で
国会は蝶と同じくらい美しい)
……
このあたりなど、ようわからんが楽しい。かれが「おおい」と呼びかけるもの、機械、近代、そういったもの。最後はこう終わる。
おーい やーい おーおーおーおー
Z-z-z-z-z-z-z-z-z-z-z-z-!
ああおれはなぜ あらゆるひと あらゆる場ではないのか!
zの数に間違いはない、と思う。最後の一行、これがカンポスの偏在志向というものなのだろうか。まあそうなのだろう。
現実
……
わたしは頭のなかで再構してみようと努める、
あの頃のわたしを 二十年前このあたりを通っていた
わたしが
どんなであったかを……
憶えていない 思い出せない。
……
とまあ、そんなところで。
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