全く新しいものの価値あるいは無価値について

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なにか新しい作品が誰かによって提出される。その技法なり技術なりが、一部の有力者だったり、大勢の人々によって評価される。やがて、同じ技法なり技術なりを用いた、第二、第三の作品が出てくる。やがてそれはある分野のたしかなスタンダードのひとつになる。あるいは分野そのものになる。そして、その分野の歴史を振り返ったときに、なにか新しいものであったそれは、そのジャンルの始祖とされ、歴史を塗り替えた、シーンを一変させた、ルール自体をひっくり返したものとして評価されることになる。

だがしかし、果たしてその評価は今日からしても高く評価されうるべきものなのかどうかというと、そこには二つの側面がある。

一つには歴史の教科書に記載されるような、ある種の記念碑的な評価である。どれが本当に最初のものだったのか、という議論や新発見などもあるだろうが、まあともかくそれは最初だったのだから教科書に載る。教科書に載るのが評価かどうかというのも論が分かれるかもしれないが、まあ認められているといっていいだろう。

もう一つは、作品そのものの評価である。技術や技法というものは、作り手の個に依存して単発的に色づくものではある。しかし、同時に、自動車が頑丈になりスピードが速くなっていったり、工場で一時間に作れるビスケットの量が増えていったりするように、右肩上がりで進歩していく面もある。技法も技術も進歩する。より技巧的になっていくとも言えるだろうか。必ずしもより新しいものがよりよいものであるというわけではないけれども、こんにちの凡庸とされる作品のなかに用いられている技術が、50年前から残る名作制作時には存在していなかった、ということは単純にあり得ることだろう。こんにちの素人がホットドッグを食べるくらい簡単に趣味で作ったものが、20年前には経験と知識を持つ作り手が、莫大な手間と時間と労力をかけなければなし得なかったこというケースもあるだろう。

そして、技術や技法の右肩上がりの中に存在するのは、凡庸な作り手や素人ばかりではない。一種の天才がポツン、ポツンと出現する。と、こうなってくると、最初の作り手とその作品の価値とはどのようなものになるのだろうか、ということだ。教科書的に記録されました、ウィキペディアにも個人ページがあります。でも、作品がこんにち的に見たり聴いたりして良いものがどうかは別問題なのである。まだ試作的な技術、先行者のいない中での手探り、そこで生まれたものが、そうやって生まれたという以外の価値をどれだけ有すると言えるのだろうか。

……といったところで、おれはさっきからなにも具体的なジャンルも固有名詞も出していないことからわかるように、そんなもの「ものによる」としか言いようがない。

言いようがないのだが、やはりなにか新しいものを提示して、納得させた人間というのはかなりでかい大玉のポツンであって、それがこんにち的にも教科書に記載されていたり、博物館に展示されている以上、普遍的ともいえる美的な価値を有する可能性は高いのではないか、と思うのである。もちろん、最初に発見、発明した人間よりも、すぐあとかだいぶあとかわからないが、後継者、フォロワーに大巨人がいることもとうぜんあり得る。しかし、最初の一発を打ち込んだやつの作品が、今なお見るに値し、聴くに値するものであるケースが多いのではないだろうか。

と、ここで「多いのではないだろうか」と書いたが、そうなると少数派、というものも存在するだろう。あるいは、おれの考える仮定が間違っていたら、多数派というのでもいい。ともかく、逆のケースだ。すなわち、いままで誰もやってこなかったことを世界に提示してみたものの、その時代の幾人かの興味をひくていどに終わり、教科書的、博物館の展示物としてしか残らない、というケース。たしかにそれはだれもやってこなかった。けれど、魅力はないな……。

意味というものを重視する世界であるならば、「だれもやってこなかった」ことをやったというのは大変なことだし、あるいは何らかの作品というのはそういう文脈でこそ語られるのが現代というものかもしれない。が、魅力がない、面白くない、美しくない、なんでもいいが、ともかくつまらん。そういう場合もあるだろう。とはいえ、それにもかかわらず、教科書的、博物館の展示物以上の評価をされ、ありがたがられているということもあるに違いない。

そして、またべつに二つくらい巻き戻って、さらにどうでもいいケースというものもあるだろう。今までだれもやってこなかった全く新しいものだけれど、同時代のだれにも評価されず、後世のだれにも再発見されなかったケースだ。もちろん、それがなにかのジャンルを築くこともなければ、後継者を生み出すこともなく、教科書にも載らなければ博物館にも収蔵されない。そのあまりにも小さいポツンは、歴史の流れのなかで完全に姿を消してしまう。いま生きているすべての人間がその作り手の名前も知らなければ、作品もしらない。

……というケース、「あるだろう」といっておきながらなんだけれども、あるのだろうか。なにせ、「今までだれもやってこなかった全く新しいもの」なのだ。人類初、といってもいい。それを提示したのに、だれもその価値に気づかない、気づいても面白がられない。まったく普及もしなければ、名も残らない。

なぜだろうか、なにか、それはとても面白いもののように思えてきた。歴史に名を刻まれたもののこんにち的な評価を考える、などというよりも、よっぽど楽しそうじゃないか。ひょっとしたら、消えかかっている、小さな小さなポツンが、かろうじて存在を残しているかもしれない。それを見つけ出し、「これは人類初である」と名指しすること。それはなにか価値がありそうだ。

ありそうなのだが、「なるほど、そんなものがあったのか。とてもマニアックでおもしろい」などとなまじっかウケてしまうのは面白くない。ましてやブームにでもなったら興ざめだ。発見したやつも「これはしかし、新しかっただけでつまらんよな……」と思い、世間も素通り。そういうのがいい。そういう話を聞きたい、読みたい。さあ、諸君、昔の新聞を、雑誌を、百科事典を漁れ、ウィキペディアのリンクを延々と辿れ、博物館の倉庫に忍びこめ。なんてたって早いもの勝ちだからな。