シオランの若書き『欺瞞の書』を読む

 

欺瞞の書 (叢書・ウニベルシタス)

欺瞞の書 (叢書・ウニベルシタス)

 

……最後の暗礁は、著者その人がこの著作を忘れており、そればかりか、そこにはもう自分の姿は認められないと、われわれに語ったことだった。

―仏訳者注記

というわけで、ルーマニア語で書かれたシオランの二作目の著書のフランス語訳の全訳である。日本語訳者によれば「爆発するバロックの文体」と評されているらしい。

なるほど、読みにくい。というか、おれが日本語を読む力を少し失い、そのリハビリ中であるということも関係するかもしれない。リハビリにはアフォリズムがいい。だが、本書はバロックだ。バロックがなにか知らないが、ロックの仲間かもしれない。ここには午前三時のファズギターが響き渡っていて、じっくり読むには骨が折れた。

音楽的エクスタシーは同一性への回帰であり、始源的なものへの、存在の最初の根源への回帰である。そこにあるのは、もはや存在の純粋なリズム、生の内在的な、有機的な流れだけだ。私は生を聞く。ここに、一切の啓示が生まれる。

というわけで、本書に数多く見られるのが「音楽的エクスタシー」とやらだ。とはいえ、これは後年のシオランの著作にも見られる趣味以上の趣味であって、いや、音楽に限らず本書には後のシオランの方向性の始源的なものが散りばめられているといってもいい……かもしれない。

私たちの内部で明瞭なかたちをとろうとするさまざまの感情、そして記憶、こんなものは何としてでも根絶せねばならぬ。持続する一切の執着、わずかに持続する悔恨と希求、こういったものはいずれも例外なく、私たちの生きる妨げとなり、私たちの自由を奪い、私たちの存在にくだらぬものをつめ込む。記憶や欲望が何の役に立つというのか。

このあたりなど、仏教、というか釈尊の教えに傾倒する感じが出ているように思える。

自由はあまりにも大きく、私たちはあまりに小さい。人間のなかで、自由に値した者はいたのか。人間は自由を愛するが、しかしまたそれを恐れる。

こんな風に引用すると、後のアフォリズムのようにも見える。「人間のなかで、自由に値した者はいたのか」。なんとはなしに自由はいいものだ、自由になりたい、自由に生きたいなどと思っているわれわれ、いや、おれにとっては、急所を刺されるような一撃だ。おそろしい。

苦しみを知らぬ者はまったく人間ではない。まじりっ気なしの人間であるためには、粉砕されていなければならぬ。苦しみの作業は次のようなものだ。つまり、人間を解体し、そして解体のなかで人間を強固なものにすること。私たちは自分の最後の残骸を失い、自分の魂を絶滅させたあげく、苦しみの結果である無の抵抗を取り戻し、おのれ自身の残骸に勝利をおさめるのである。

このあたりはなんだろう、バロック的なのか? おれにはあまり意味がわからない。この文章の前後を読んでもよくわからない。ただ、なにかほとばしってる感じはする。もう若くもないし、若書きすらないおれが言えたもんじゃないが、若書きだなぁ、などと思うのである。半出生主義も直接的に述べられていない。むしろ、なにか「生」に向かっているように思われる。そのあたりが、後のシオランをして「そんな著作しらねー」と言わせるところかもしれない。

というわけで、どういうわけかわからないが、まあともかく「シオラン読んでみようか」と思う人がいるとしたら(いないような気がする)、とりあえず後年のアフォリズムから入るのがいいと思う。年代順に読んでいこう、と思うと、なんだこりゃ、となるかもしれない。とはいえ、それはおれにクラシック音楽の知識がなく、また、キリスト教社会に生きてこなかったことによる、それに対する実感の欠如というものが原因かもしれない。まあ、好きにするこった。

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