シオラン『悪しき造物主』を読む

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悪しき造物主〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)

悪しき造物主〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)

 

「こいつ、野球と競馬とシオランの話しかしてねえな」と思われるのであれば、それで一向にかまわない。『悪しき造物主』。『時間への失墜』と『誕生の災厄』の間に書かれたものである。

 常軌を逸したわずかな場合を除けば、人間は善をなそうなどとは思わぬものである。

本書の最初の文章がこれである。このあとにも文章は続くが、決してこれを逆転させるふうには進まない。この段落の最後はこうだ。

いやそもそも人間が存在なのかどうかさえ、ほとんど分かったものではない。人間はひとつの幻影ではないのか。

これである。この調子が好きだという人もいれば、気に食わないと思う人もいるだろう。おれは圧倒的に前者すぎて困る。

 克服すべきものは、生への欲望よりはむしろ<子孫>に対する好みである。親、産みだす者たち、彼らは扇動者か、さもなくば狂人である。出来損ないの最たる者に、生命をもたらし、<産む>能力があるということ以上に、私たちを失望させるものがまたとあろうか。どんな人間をもおかまいなしに造物主めいたおのに仕立て上げてしまうあの奇蹟を想いみるとい、どうして恐怖や嫌悪なしにすまされようか。

 それでもって、きました半出生主義。強烈な物言い。そして、「悪しき造物主」がなにを指すのか、刺すのかというところでもある。もっとも、シオランは神もしっかり刺しにいっているので安心である。安心?

 俺は自殺するつもりだと考えるのは健康にとってよいことだ。この問題以上に疲れを癒やしてくれるものはない。この問題に取り組み始めると、私たちはたちまちほっとした気分になる。この問題を考えることは、ほとんど自殺行為そのものと同じように私たちを自由にしてくれるのである。

自殺という観念がなければとっくに自殺していたというシオランらしい物言い。健康のために野菜を食う必要も、走る必要も、瞑想も必要ない。自殺について考えろ。そうしたら、シオランくらい長生きできるかもしれない(享年84)。

そして、「自殺との遭遇」ではこんなことも書いている。

 いまだかつて一度たりとも自殺を考えたことのない者は、絶えず自殺を念頭に置いている者よりもずっと素早く自殺を決意するだろう。決定的行為というものは例外なく反省によるよりは無分別によって、はるかに容易に達成されるものであるから、自殺に無垢な精神は、ひとたび自殺しようという気になると、この唐突な衝動を抑えようがないのだ。

それってエビデンスあるの? というような現代社会だが、しかしはこれはこれでありそう、という気にはなる話だ。「心理学的剖検」による調査は以下の本でも。

d.hatena.ne.jp

そして、本書、だんだんアフォリズムになっていく。

 孤独でありたいという欲望がいかにも強く、誰かと言葉を交わすくらいなら、おのが頭蓋をピストルでぶち抜いた方がましだという瞬間があるものだが、大切なのはこういう瞬間だけだ。

うはは、はるか古から、いろいろな人間が「大切な瞬間」について述べてきたろうが、これはいい。そんな瞬間がない人間とは話が合わなそうだ。頼むから静かにしてくれ。人は弱いから群れるのか、群れるから弱いのか?

とはいえ、こんなことも言う。

世に忘れられて死ぬよりは軽蔑されて死にたい、これが栄光を願うということだ。

もっとも、栄光など求めてなんなのだ、という話なのだろうが。

 文学の場合もそうだが、人生においても反抗には、たとえそれが純粋なところではあっても、どこか嘘っぱちめいたところがある。一方、断念となると、たとえ無気力から生まれたものであっても、つねに本物の印象を与える。どうしてこんなことになるのか。

これもまたどうなのだろうか。どうなのだろうかというか、おれはなんとはなしにこれは正しい印象だな、と思うわけだが。そしておれは断念のおめかしをしてブログを書いている。そういうことを明かしてしまうあたり、おれは正直者だ。走る正直者だ。

苦しんだことのない者との会話は、すべて例外なく下らぬおしゃべりにすぎない。

自殺を考えたことのない人間と話しても、話が合わないだろうし、これもそうだろう。ただ、「自分は苦しんだことがない」と思っている人間などは、常軌を逸した人間であってそうそうお目にかかれないだろう。だが、それっぽっちの苦しみ? と、おれが思ってしまう人間とは、やはり話が合わないだろう。自分の苦しみについて人間は驕慢になるところがある。

私が論争に加わる気にならないのは、論争にかかわっている連中を見ると、感心はするが尊敬するわけにはいかないという人間があまりに多すぎるからである。私からすれば、それほど彼らは素朴に見えるのだ。こういう連中をどうして挑発する必要があろうか。同じトラックでどうして張り合ういわれがあるだろうか。わが倦怠が私に授けてくれた優越性たるや、彼らが私に追いつくことなどほとんど不可能と思われるほどのものなのだ。

おれはもうずいぶん論争めいたことをしていないし、ネットで起きる論争めいたことにほとんど価値を見出だせない。価値というか、まずそれ以前に興味を惹かれない。そのひとつの理由に「論争にかかわっている連中を見ると、感心はするが尊敬するわけにはいかないという人間があまりに多すぎるから」というのはあると思う。おまけに、インターネットときたら、賢い人間も犬もやっているものだから、話はかみ合わないことは往々にしてあるし、裁定者もいない。ひたすらにぐだぐだと呪詛と攻撃の応酬になってしまう。そこから得られる知見というものもあるのだろうが、その知見を得るのに支払う時間がもったいない。おれはできるだけいっちょかみしないようにしている。できているかどうかはわからないが。

 軽薄にして支離滅裂、何事においても素人のこの私が、底の底まで知り抜いたのは生まれたことの不都合さ、ただこれだけだ。

ぜんぜん、軽薄で結構。セクシーランジェリー。では。

 

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