シオラン『時間への失墜』を読む

 

時間への失墜 (E.M.シオラン選集)

時間への失墜 (E.M.シオラン選集)

 

 「おまえ、立て続けにシオランばっかり読んでるけど、飽きてこないか?」と言われそうだが、実のところ飽きてきている。とはいえ、今、一気にぶち当たらなければいけないという気がどこかでしていて、それでおれの身になるというわけでもないだろうが(というか、シオランを身につけてなにか実利になることがあるだろうか?)、ともかく今なのだ。同じような思いでおれはセリーヌの全集を読んだ。結論として、セリーヌで読むべきなのは『夜の果てへの旅』と『なしくずしの死』の二作といっていい。あとは「ゼンメルヴァイスの生涯と業績」くらいだろうか。とはいえ、チャールズ・ブコウスキーセリーヌを「歴史始まって以来の最高の作家」と言っている。「ゼンメルヴァイス」についてはカート・ヴォネガットが高く評価している。

d.hatena.ne.jp

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……それはともかく、シオランだ。

『時間への失墜』はアフォリズム集ではない。それだけで、やや骨が折れる。とはいえ、そのなかからアフォリズム的になんらかのエッセンスを抽出できないか。

どんな卑しい動物も、もっとも高貴な動物と同じように、いずれもみな自分の運命を受け入れ、それに満足し、あるいはそれを甘受している。どんな動物も人間を範と仰ぐことなく、また人間の反逆の真似もしなかった。その動物にもまして植物は、被造物であることを喜んでいる。イラクサでさえいまだに神のなかに息づき、ゆったり寛いでいる。ただ人間だけが神のなかで息をつまらせているのである。

生命の樹

人間の意識いうもの、あるいは自意識いうもの、そういうものと悪しき造物主、これに対して動植物の天国を説く、といったらおかしいか。あるキリスト者が「原罪とは死ぬことだ」みたいなことを言っていたように思うが、生への認識、死への認識いうものと、そこから生まれる災厄、かなあ。

 健康な者はどんな取り柄があるにしろ、いつも期待を裏切る。ほんのわずかでも彼の言葉を信用することはできないし、口実か軽業以外をそこに見てとることもできない。たあ恐ろしいものを経験してはじめて、わたしたちの言葉にはある種の厚みがそなわるが、健康な者は、こんな経験はもち合わせていないし、病人というあの隔絶された人々との意思疎通に不可欠の、災厄についての想像力などなおのこともち合わせていない。

「病気について」

こんな呪詛はどうだろうか。健康な者は「なに言ってるんだか」と一笑に付すことだろう。だが、この言葉はおれのような病める人間にとっては救いのようにも思われる。

病気を克服できない以上、わたしたちのなすべきことは、病気を育て、楽しむことである。

 

苦痛を愛することは不当に自分を愛することであり、自分の存在を何ひとつをも失いたくないと思うことであり、自分の欠陥・不具を味わい楽しむことである。

 

人間の出現要因の一覧表のなかで、最初に上げられるのは病気である。だが人間がほんとうに出現するためには、人間には原因のない病気が人間の病気につけ加えられなければならなかった。なぜなら意識とは、めくるめくほど多数の、発現が遅れ、抑圧された衝動の完成であり、人類が、そしてすべての種が経験した障害と試練の完成であるから。

そして、人類は、ほかの種に対して例外的な責め苦を負った自らの試練を正当化し、意味を与えようとする。病むべくして生まれ、健やかにと命ぜられ、とはだれの言葉だったか。ともかく、ここにはなにかのシオランの転倒の発想があって、ある種の人間、おれのような病んだ精神の持ち主を引き寄せる。そして、変なふうに勇気づけられもする。そこにシオランの持ち味があって、長い時間を経て再評価されるに至った理由でもあるだろう。

というわけで、あと数冊だろうか、まだシオランを読む。できれば何冊か手元に置いておきたい。

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