このところ、酒が翌日に残るようになった。二日酔いといっていいのかどうかしらん。しらんが、色白なおれの顔に少し赤みがさし、目は少し充血している。頭痛であるとか、あるいは普通に酔っぱらっているという感覚はないが、少しふわふわしているような気はする。しかし、なにより、「酒が抜けていないのではないのか」という疑念がおそろしい。
おれはおれの加齢とともに酒に弱くなった。
しかし、飲まなきゃやってられない。そうでなくては労働というものに耐えしのぐ活力が出てこない。労働の終わりの酒のために働く、働くために酒を飲む。働いて疲弊する。飲んで疲弊する。ただ、これである。
というわけで、労働者としてのおれの価値は下がる一方だというほかない。もう二十年近く同じような仕事をして、それだけのスキルが身についたわけでもなく、同じようなことをしていても疲れるのが早くなっただけである。
仕事のハードルが高くなったのではない、おれのジャンプ力が弱まっているのだ。
それはなにも単に加齢と飲酒習慣がもたらしたものではない。精神疾患というものがある。おれが双極性障害になる前は、空腹と眠気に気を使ったり、対処、抵抗していればよかっただけだが、今はなにか、おれ自身のことなのにおれ自身には見えぬゲージがある。そいつがあふれるとおれはパンクする。躁に振れるか、鬱に振れるかはわからない。ただ、その予兆を感じとることだけ。そして、その予兆を感じたら、抗精神病薬を二倍飲むだけ(もちろんこの薬の最大処方量からすればまだまだ余裕もあり、このような頓服の仕方は医者にも許可されている)。
まあ、いずれにせよ、足腰が弱くなり、精神に問題をかかえた、雑魚の労働者、独り身、「あなたの未来は?」と言われたらならば、それはもう言うまでもないだろう。だれが新たな労働者として年老いて精神を病んだ高卒の酒飲みを選ぶだろうか? この苦痛と疲弊はいつまで続くというのか。ただ、生という悪癖をやめられぬだけなのか。
生きるどんな理由もなければ、ましてや死ぬどんな理由もない――齢を重ねるにつれて、私はますますそう思う。だから、根拠などまるでなしに生き、そして死のうではないか。
私たちが生を切り離すのではない。生が私たちから離れるのだ。生は徐々に身を引いてゆき、そしてある日、私たちは自分が生のあとに生き残っていることに気づく。
いつ、人間は生き恥をさらし始めるのか。これこそ私たちが自分に向けなければならない問い、だれにとってももっとも重要な問いだ。
― シオラン『カイエ』1968年3月14日
ん? この日のシオランはやけに前向きだな。まあ、こっちはこんなところだ、どうにもならんよ。
おしまい。