ウィース・タン! 『天冥の標』を読了する

 

『天冥の標』を読み終えた。

……それになにを付け加えればいい?

大作、名作である。

「SFというものを読んでみたいが、なにから読めばいい?」と聞かれれば、おれは今後『天冥の標』をすすめるだろう。「なに? そんな長いものを? P.K.ディックの短編集でもすすめるべきではないのか?」という声もあろう。が、しかし、『天冥の標』にはSFの幕の内弁当、というとなにかスケールが小さいが、ともかくSFのいろいろのジャンルを網羅するようでもあり、さらには作品の強度が天元突破しているのである。これの第一巻を読んで「お、ちょっとおもしろい、続きが気になる」となれば、もうあとは自動的にSFジャンルの沼にはまること間違いない。

……と、それほどSFに特化した読み手でないおれが言っていいのだろうか、という気はする。が、しかし、世界の真の姿の有り様から、大規模感染症あり、性についてあり、異星人とのコンタクトあり、未知の探検あり、サイバーパンクあり、百億規模の宇宙艦隊戦争あり、こんなに盛りだくさんなのは、なかなかにねえだろう。それが、実にスマートに、それでいて、「これぞ」という伏線回収や掴みどころをおさえている。たまらんよ、実際。

が、実際、「たまらん」と言いたいのであれば、今、この時点で未読の読者が幸いである。おれがこの作品と出会ったのは、まだ「VIII」くらいまでしか出ていない頃であった。そこまで追いついて、足踏みした。いや、作者の苦労を無視して言えば、「させられた」か。ところがどうだろう、今、「I」の『メニー・メニー・シープ』から読み始めれば、一気に最後の最後まで行けるのだ。それはもう、うらやましい。そして、少なららぬ人が「一気に」行ってしまうのだろうと、おれはそう思う。

しかしなんだろうね、この「メニー・メニー・シープ」という言葉からして、小川一水という人には言葉のセンスがあると、何から目線かわからぬが言いたくなる。そう言いたくなる言葉がたくさん出てくる。スケールの大きさに、ディテールの細かさに、ひとつひとつの言葉、造語がいい具合に呼応している。それが世界を形作る。その世界は非常に広大でいて、非常に深く、かといってとっつきやすいのだ。本当に。

おれはものを褒めるのが苦手だ。苦手な人間が、なにかを褒めようとして逆効果になるのも望まない。ただ、本件について望みたいのは、まだ読んでない人は『天冥の標』を読んではどうだろうか、とうことである。

読んではどうだろうか? SFの、いや、そのジャンルを超えたすげえもんがあるんだぜ。

 

天冥の標? メニー・メニー・シープ(上)

天冥の標? メニー・メニー・シープ(上)