意識の低いやつは手を挙げろ!

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このところ、いや、少し前かもしれないが、Googleに入社しただの、先っぽだけ入れただの、やけに意識の高いエントリーをよく目にした。そして、それに追従するような、機械の言葉を解する、エンジニアだかプログラマーだかの意識の高いブックマーク!

とんでもない話だ。いったい、この現代日本の世を、どうしようもなくのたうち回る人間という、どうしようもない存在の、どれだけの人間が機械の言葉を解するというのか。そして、英語とかいう別の言語を解するというのか。

この現代日本にたいしたことのある立派な人間がいる、意識が高く、能力も高い人間がいることは否定できない。だが、それが総人口に対してどれだけのものというのか。25%か? 10%か? 5%か? おれにはわからない。わからないが、過半数ということはないだろう。

ならば、それ以外の人間、凡庸、凡庸ならまだマシだ、無能にして生きる意欲の欠如した、意識の低い人間はどうしているんだ。日銭を稼ぐのに追われ、アルコールと抗精神病薬にまみれて、浅い眠りにつき、現実から目を逸らし、将来からも目を逸らし……。

それでも、お前ら、居るのだろう? 頼むから居てくれ。居てくれるだけでいい。若松孝二は「インターナショナル」の歌詞について、「なんで飢えたやつが立たなきゃいけないんだ」と言ったらしいが、まさにそのとおりだ。飢えたるものは立たなくてもいい。

が、立ちもせず、声もあげず、それではいないも一緒だ。この時代はGAFAに入れるような上級国民の若人たちだけが存在し、意識の高い世界だったということになってしまう。それでいいのか。まあ、それでもかまわん。しょせん、われわれは負け犬だ。この世の塵芥だ。居ても居なくてもどうでもいい人間にすぎない。まだ、食用になる牛や豚のほうが価値がある。

でもなあ、でも、そんな人間が、おそらくは現代日本人の過半数過半数とはいかないまでも、四分の一くらいはいる、いるはずだ。いるということを示さなくて、それでいいのか、という気になる。少なくとも、おれは、意識の低いゴミ人間だと、こわごわと手を挙げる。自分の人生を生きられず、どうしようもない流れに流されて、抵抗するでもなく、行き着く先はろくでもない死あるのみ。おのれの血統も残せず、なにも残せず、それでいて、駅のホームから電車に飛び込む勇気もない弱い人間。それが、居る、居るのだ、それがなんの向上心もなく、ただ、ものを食うて、無為に生きている、それを言わずにはおられない。

だから、あんた、そこのあんた、能力も向上心も親から受け継ぐものもなにもない、ないないづくしのあんた、あんた、声高になにかを訴える必要もない、一言のコメントすらいらない、ともかく手を挙げてみないか。

この現代は算数ができて、機械の言葉を解して、コミュニケーション能力に長けた人間だけのものだ。あるいは、なんの能力も意欲もなくとも、親から譲り受けられるもの。それだけが、自分の人生を生きることができ、己の遺伝を後世に残し、幸せに死ぬことが許されている。

だが、その陰には、われわれ無力者がいる、それを、ほんのちょっと残すことはできないのか。それすら許されないのか。それは可能なのか。不可能なのか。やはり無能者にはなにも残せないのか。存在すら許されないのか。許されなかったのか。それがこの世の理なのか。理不尽ではないのか。ただ、手を挙げて、中指ひとつ立てること許されないのか、立てたところで無価値なのか、上級の人間にとってはまったく不可視のものなのか、おそらくはそうなのであろう。だが、せめて、この世にはおれのような無能者、向上心のないものはどこにいるのか。いないのか。権力を握らぬもの、または、権力を握り得ぬもの、メフィストフェレス、破門者、反抗者、単独者、デカダン、自殺者、不平家、あまのじゃく、孤独者、潔癖家、予言者、警告家、空想家、おせっかい、おっちょこちょい、こまっしゃくれ、道化、独善家、芸術者、逃亡者など、どこにも居なくなってしまったのか? 

おれにはおまえの声が聞こえない。おれにはおまえの姿が見えない。

おまえにはおれの声が聞こえない。おまえにはおれの姿が見えない。