『人種は存在しない 人種問題と遺伝子』を読む

先日、こんな記事を読んだ。

「人種」の概念、科学で使わないで 米で差別助長を懸念:朝日新聞デジタル

"「人種」の概念、科学で使わないで 米で差別助長を懸念"ということだ。

差別や誤解に対し、米人類遺伝学会(ASHG)は昨年10月、「人種差別のイデオロギーに遺伝学を使うことを非難する」と異例の声明を発表。「遺伝学では人類を生物的に分けることはできない」「『種の純血』などという概念は、科学的に全く無意味だ」などと批判している。

記事はここで終わっている。……というのは嘘で、本当は続きがある。ただ、おれは朝日新聞デジタルの有料会員でないので読めないだけだ。

そしておれはこんなブックマークをした。

「人種」の概念、科学で使わないで 米で差別助長を懸念:朝日新聞デジタル

植物でいえば白花品種と赤花品種みたいな(sp.かvar.かf.かcv.か知らんが)違いはあるように思えるが(もちろんその交配種もふくめて)、まあ記事を最後まで読んでない。概念というとむしろ社会的なものに思えるが。

2019/03/27 20:08

b.hatena.ne.jp

おれがかろうじて種だのなんだのについて思い浮かぶものといえば、植物となってしまう。あ、言っておくけど、おれ、文系の高卒なので、正式な教育を受けていません。で、この季節に咲いているCornus kousaという種にはCornus kousa f. roseaというforma、品種もある。違いといえば、花が白いか赤いかだ。

人間も、白いのから黄色いのから黒いのからその中間のから、目に見えて違う。なので、そのレベルでの区分はされるんじゃないのかな、と思った。もちろん、なにが基本種でそちらのほうが「本来の人間である」とか、品種の間に優劣があるということはなくても、なにか違うのではないか、と。

で、冒頭の記事の「人種差別のイデオロギーに遺伝学を使うことを非難する」というのはもっともだけれど、「遺伝学では人類を生物的に分けることはできない」というのはよくわからんな、と思った次第。

でもって、こんな本が目に入ったので、「これかもしれない」と思って手にとった。

 

人種は存在しない  -人種問題と遺伝学

人種は存在しない -人種問題と遺伝学

 

 なんというか、まさにおれの疑問に答えるために存在しているかのようなタイトルだ。著者は国際的に活躍しているフランスの分子生物学者で、一般向け著書も多いらしい。この本もその一冊だ。ただ、とくに気になることではないけれど、フランス国内向けの本らしさはある。

で、いきなり第3章の「科学は人種を否定する」から引用。

……地球で暮らす六十億人の人々の中から、無作為に選んだ二人のDNAは、99.9%が同じである。つまり、平均して千個の塩基のうち一個しか違わない。この均質性は注目に値する。われわれの親類とも言える大型の猿類では、それぞれの種内の差異の割合は、ヒトより四倍から五倍も高い。ヒトのそのような高い類似性には、二つの説明がある。

 一つには、人類の誕生は比較的最近であることだ。現代型の人種(クロマニョン人)の誕生は、せいぜい二十万年前である。われわれ全員の祖先は、十万年ほど前にアフリカで暮らしていた数万人の小集団である。もう一つは、これまでに人類は、大陸から大陸へと渡り歩いてきたことだ。数千年にわたって定住しながら進化したヒト集団があったとしても、ほとんどの人類は、移動、侵略、交易などを繰り返し、他のヒト集団と交わってきたのである。

まず、この「均質性」が前提になる。ただ、0.1%でも300百万個の塩基が異なる。ならば、「全員異なるのか、全員同じなのか」。これは言葉の定義にもよる問題だが、本書の扱う主題でもあろう。

あるいは、遺伝がすべてを決めるのかどうか。遺伝に重きを置きたがる人間もいる。ただし、それは容易に人種差別に陥りやすい。むしろ、人種差別をするために、遺伝というものを用いているようなケースも見られる。

もちろん、遺伝がまったくその個人に影響を与えないなんてことはない。たとえばおれは双極性障害だが、この病気も一卵性双生児と二卵性双生児の調査から、遺伝性があるとされている。もっとも、どのリスクアレル(?)がこの病気に関与しているかは今現在も不明だ。

病気以外でいえば、たとえばアフリカ系の人たちが陸上の短距離でも長距離でもレコードを持っている場合が多いので、やはり人種間の差はあるのでは、という意見もある。これは「身体能力に人種間の差があるのであれば、知能にも差があるのではないか」という意見にも結びつく、センシティブな話だ(もっとも、この問題を別の角度から見ると、いかに現代社会というものが「知能主義」に偏っているのか、ということにもなるんじゃないかという気はするが、それはまたべつの話)。

で、たとえば長距離に強いアフリカのランナーといっても、たとえばそれはケニアのリフトバレー州に住む人口300万人のカレンジン族だったりするわけで、「やはり遺伝による能力か」と思いたくもなる。が、彼らは高地に住み、毎日5kmから10kmの道を走って学校に通っていることが多く、その習慣がどれだけ影響しているかは厳密にはかれない。少なくとも、遺伝子研究で証拠はない。スポーツに関係しそうなアレルは見つかっているけれど、優秀な長距離ランナーにおいてそのアレル頻度が一般の人と異なるわけでもない、という。

……急に「アレル」とか言い出してなんだかわかんないよね。でも、おれもよくわかってないので適当に調べてください。そんで、おれが本書で新しく出会った言葉に「スニップス」(SNPs)がある。

DNAに最も頻繁な遺伝的多型性は、局所的な変化であり、これがスニップスである。ほとんどの場合、あるスニップ(SNP)にアレルが存在したとしても、その性質は、人の外観、あるいは生理に、何の影響もおよぼさない。

 ふむふむ。

あるヒト集団に特有のスニップスの形式は、ほとんど存在しない。これらの遺伝的マーカーの多様性は、二つの地理的ヒト集団よりも、一つの地理的ヒト集団内のほうが格段に多い。

へえ。

……って具合なもので。でも、この本は親切なので、「この章と次の章とその次の章はこの本の中核だけど、専門用語が出てきて難しいから、飛ばしてもいいよ。でも、一応重要な部分は灰色のマーカー引いておくから」と書いてある。 すばらしい。

ともかく、なんだ、肌の色の違いも自然選択であって、もとはみんな黒かった。太陽光に対して、皮膚がんから守られた(ほうが結果的に生き残った)か、くる病を避けるためにビタミンDを生成させた(ほうが結果的に生き残ったか)という違いだ。

ちなみに、乳糖に対する耐性については、ヨーロッパ地域の人間は大人でも牛乳が飲めるが、アフリカのほとんどの大人は乳糖に耐えられないので、支援物資としての粉ミルクは成果がないそうだ。

というわけで、といっていいかどうかわからないが、えーと、ヒトという種はかなり均質的だ、ということだ。

ペキニーズ、アフガン・ハウンド、グレート・デーン、プードルなど、犬には実に多くの品種がある。しかしながら、それらの犬はまったく同じ種に属しているのだ。なぜなら、どのような犬であっても、基本的に交配が可能だからだ……。

なるほど、イヌと比べたら、ヒトの差なんて、というか。「われわれは哺乳類の中でも、最も互いに均質な種の一つなのである」ということだ。

「人種」はその特徴に応じて分類されてきたが、まだできることは残されているだろうか。現実にはほとんどない。遺伝的特性と思われる特徴を徹底的に調べるたびに、それはその集団の歴史や生活条件に密接に結びついていることが判明する。そうした特徴にDNAレベルでの密接な相関関係を見つけるのは、実に困難であることがわかる。

 うーんと、つまりは……。まとめを引用しちゃうね。

 一つめは、厳密な意味において「人種」は生物学的な意味をもたない、という結論だ。人類を人種に区分するという考えは、外見から容易に見分けのつく身体的特徴に応じて個人の帰属を決め、その人物に遺伝を根拠とする能力や態度を割り当てることである。だが、われわれのゲノムを分析してみると、そうした考えは論証に耐えうるものではない。人類の起源が比較的新しく、また人類史を通して人間は混じり合ってきたので、われわれは比較的均質性の高い存在なのだ。したがって、人類をはっきり区分することは不可能だ。

ということだ。とはいえ、まったく均質ではないことも認める。

 二つめは、そうはいってもDNAの分析によって、人類という種の祖先集団は明確にすることができる、という結論だ。

「祖先集団」とはなんぞや、というのは本書をあたられたい。

 三つめは、病気によっては、これらの集団で発生率が著しく異なる、という結論だ。

しかし、それらの多くは「遺伝的特性」によるものではない。生活環境など大きく作用している。

 最後の四つめは、ある種の「先天的能力」が祖先集団によって異なることはありうる。だが、そのような遺伝に基づく差異は、今日まで証明されたためしがない、という結論だ。

 でもって、曰く、こういう本では一刀両断が好まれるが、そうはしない、と。PC的な態度を取りすぎると、人間の差異というものがあるという限界に達してしまう。一方で、遺伝的アイデンティティに重きを置きすぎても、今のところ「人種」というものは生物化学的に無意味だ。本書では、アメリカで認可を受けた「アフリカ系」向けの薬(バイディル)について、ばっさりとペテン扱いしている。

黒人向け医薬の虚実 | 日経サイエンス

というわけで、共通の祖先集団を持ち、異なる「民族集団」というものはあっても、ほとんど生物学的に違いなんてないのだぜ、ということ。そして、人間の尊厳というのはべつに科学的な基盤においてあるのではなく、われわれにとって必要不可欠な政治的選択なのだぜ、とおっしゃる。そして、人間の集団間に存在する遺伝的な差異を誇張も否定もせず、多様性をチャンスによろしくやっていこうや、ということなのである。

 

以上。

 

……と、おれの最初の疑問はどこにいったのか? どこにいったのかな。まず、おれは「肌の色の違い」=「人種」みたいな意識があったことは否めない。短絡的ともいえる。これは、「肌色」という言葉が存在していたくらいの、この日本という国に生まれ育って一歩も外に出たことのない人間の先入観、だろう。あるいは、それゆえに「人種」という言葉の意味についてあまり意識しないできた人間の、考えの浅さだろう。もちろん、自分(の属する集団)と大きく肌の色の違う人間に対して親愛より先に警戒心などが先に生じるという傾向があるならば、それは心理学、進化心理学の領域だろうか。

だから、なんというか、冒頭の記事の科学者たちの「遺伝学では人類を生物的に分けることはできない」といったときの「人類」の捉え方からして、スケール、あるいは角度、前提が違っていたに違いない。そして、「科学で使わないで」というのは、「人種」いうものを前提に、たとえば薬品を作ったとしても、それは(今のところ)疑似科学にすぎない、ということだろうか。そして、もし、それらの集団について取り扱う場合、それは科学の問題ではなく、社会、政治の問題なのだ、たぶん。だから、「科学で使わないで」なのだ、たぶん。

でもって、「肌の色の違い」=「人種」くらいの認識であったおれにとって、「人種は存在しない」とフランスの分子生物学者がいうときの「人種」にはまずそうとうな隔たりがあった、そしておそらくはたぶん読後のいまでも「ある」のだ。

もちろん、分子生物学者も「人間に肌の色に違いなんてない」とは言わない。ただ、「人種」はない、というのだ。

となると、なにか言葉の問題、用語の問題というのも出てくるだろう。「人種」という言葉が果たして日本語として適切なのか。適切に使用される場面があるのか。言葉狩りだの、「用語を変えればよくなるのか」というレベルではなく、ある事柄を、正しく指し示すときに、それでいいのかどうか、という言葉の更新だ。「共通の祖先集団」、「民族集団」……。少なくも「種」は違わない。イヌですらそうなのと同じように

肌の色は肌の色にすぎないし、ヘモクロマトーシスにかかりやすいかどうかはかかりやすいかどうかにすぎない。それにしたって、割合や傾向があるだけで、ある個人を完全に帰属させることができるものでもない。帰属させることができるのは、均質性の非常に高いヒトという種のみだ。そのあたりだ。

正直、むずかしい話もあって(どういっていいかわからないが、頭の中でまだ遺伝というもの全体の明確な「像」が結べていないのだ)、わからんところも多い。多いが、もしも「人種」という語を使う場合には、なにかこう、「そのあたり」を意識しよう。そう思った。

 

こんどこそ、以上。

 

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goldhead.hatenablog.com

遺伝と環境について本というと、こんなのを読んだっけ。nature via nurture。