ネズミの亡骸

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あれは月曜日だったか火曜日だったか、これを書いているのは木曜日の夜。おれは仕事が手隙なうえ、二日酔いで出社が面倒だったこともあって、昼頃に部屋を出た。小径車を引きずりつつ、アパートの門を開いたところで、それを見た。それは、ミミズのような尻尾をそなえていた。それは、漫画映画のように寝そべっていた。ネズミの亡骸であった。

小さな亡骸であった、ともいえる。とはいえ、無視できない大きさでもあった、ともいえる。おれは「ネズミの死体が、おれのアパートの門の外にあるなあ」と思った。おれは、それをどのように処理するべきかということを、思考の埒外に追いやった。おれはネズミの亡骸に触りたいとは思わなかった。だれかが処理してくれればそれでよい、そのように思った。

二日目、ネズミの亡骸にはハエがたかっていた。なるほど、ハエがたかるというのは、こういうことかと思った。ハエが、この亡骸を食い尽くし、骨にするのかと思った。おれは、ネズミの骨がほしいと思った。ただ、コンクリートの上のネズミの亡骸が、どのくらいで白骨になってくれるのか、まったくわからなかった。

三日目。おれは出かけるとき、帰るとき、少し憂鬱になった。ネズミの亡骸がひどいにおいを放つようになっていたら、どうしようか。たかっていたハエの、そのウジが目に見えたらどうしようか。おれはおもしろくなかった。一方で、哺乳類の亡骸というものが、どのように白骨化するのかという興味もあった。それは明日の、あるいは明後日のおれに他ならないからだった。実際のネズミの死骸は、まだ漫画映画の行き倒れたネズミのようなポーズをとって、体毛もふさふさで、ただおれが否応なしにそばを通ると、ハエが逃げるばかりであった。

四日目か、五日目。ネズミの死骸はまだ漫画映画のような姿勢で行き倒れていた。ハエがたかっていた。目の周りがすこし黒ずんでいるように見えた。あるいは、眼球というものが溶けてしまい、涙のように体液として流れ出してるようにも思えた。おれは、このネズミの亡骸が、白骨と化すまでそうとうの時間がかかるのではないかと思うた。あるいは、ネコやカラスなどが持ち去るのではないか、などと想像した。腐った内臓が散乱するようすなども思い浮かべた。

帰路、雨が降っていた。雨が降ったらネズミの亡骸がどうなるか、おれは想像した。ハエはどこかに行ってしまうのではないか。それとも、水分を含んだ亡骸はひどいにおいをより強く放つのではないか。おれはネズミの亡骸の想像ばかりして、折り畳み傘を開いてずったらずったら歩いて帰った。

そこに、ネズミの亡骸はなかった。たしかに、そこにあるはずだった身体がなかった。雨に流される、ほど雨は降っていない。どこかのだれかが、アパートの敷地内に死骸を投げ入れたのではないかと慎重に入ってみたが、どこにもその姿はなかった。

明日は、燃えるゴミの日。おれの隣の住人、いつ引っ越してきたかわからない男の老人が、自分のゴミに混ぜて捨てたのかもしれない。どこかのネコがくわえて持っていったのかもしれない。ともかく、そこにネズミの亡骸はなかった。どこにも、ネズミの亡骸はなかった。

おれは、安堵した。おれは、ネズミの亡骸がどうなっていくのか、興味をもっていた。一方で、なんともいえぬ、気の重さを感じていた。おれがアパートを出るたび、アパートに帰るたびに、それに直面しなくてはならない、気の重さ。それが取り払われた。おれは、その安堵の方が強いな、と思った。

おれのアパートの門の外に、ネズミの亡骸はもういない。おれの気は少し軽くなって、アパートから会社に行き、会社からアパートに帰るのだ。ただ、それだけだ。