私はどこに「いない」のか

f:id:goldhead:20190809123717j:plain

【3868】 コンサータによって自己の連続性を失いつつある | Dr林のこころと脳の相談室

これを読んで思うたことを昼休みに書く。昼休みといってもおれは今日の午前中ベッドの上で固まっていたので、昼休みといっていいのかどうかわからない。

「赤肉団上に一無位の真人有り」というが、そもそもの仏教は真人というものを認めたのかどうかよくわからない。ただし赤肉が無いということまでは言っていない。この世はシミュレーションであるとか、ホログラムであるとか。とはいえ、梵我一如は仏教ではない。ない、と断言したが、おれがおれの仏教趣味から今はなにも参照せずに書いていることなので正確性などはいっさい期待しないように。

仏教では諸法無我という。仏教のコアというか、核があるとすれば、諸法無我諸行無常一切皆苦、とあと一個なんかだろう。だが、コアのコアというと、無我にあるように思える。おれがおれというものを考えるときに、おれは西洋哲学がまるで理解できないので、おれは仏教のエンジンを借りる。

おれがおれと思うているおれはそもそも「自己の連続性」の錯覚のようなものである。そのときどきの「わたくしといふ現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です」という具合だろう。これが脳のシナプスの発火だかなにかだかということでもよい。そのときどき反応がある。反応するにはなにか刺激があって、そこには人間には限らないが、他者的なものが必要となるだろう。そこには関係というものがある。

おれがおれと思うているおれは関係においてのみ生じるものである。自他不二といってそれの正確な意味はわからぬが、自己いうものは他者なるものなくしてありえないものである。それが、その瞬間、瞬間の関係が発生し、一つ一つの小さな光が生じていておれのようなものがあるように錯覚している。

ただ、その間隙を縫って、カラスが「カー」と鳴いて、なんの思いもなしに「カラスがカー」と鳴いたことを意識するところに一無位の真人の働きが、盤珪禅師のいうところの不生の仏心がはたらいているといえるやもしれぬ。

また、ほんらいの仏教いうものは、輪廻というものを認めていないというが、われわれの精神が刹那刹那に六道を行き来して、天にもなり人間にもなり修羅にもなる。そういう考え方は悪くない。

というわけで、おれというものはおれというものが本来「いない」のではないかと思っている。たとえば、「自分探し」という言葉を使うときの「自分」は、探してもいないよ、ということだ。

ただし、われわれが身体を有し、他の人間との縁の中で生きているのも事実であって、そこに社会的な「自分」というものは否応がなく存在してしまう。そのとき、本来は「いない」自分というものを自らで規定しないではいられないだろうし、縁の生み出した大きな人間社会いうものがおれというものを規定することも避けられない。

そのとき、おれというものが本来「いない」ということを発見したおれの脳、あるいは身体というものとこじれた関係になる。脳→社会的存在としてのおれ→社会の関係というものが出てくる。おれが「いない」というおれは、しかし社会のおれとして生きねばならぬ。人間というのはどの段階までが問われるのか。マイケル・S・ガザニガはこう言った。

責任の有無を、脳神経科学者が脳のなかから見つけ出すことはけっしてないだろう。責任とは人が持つ属性であって、脳が持つ属性ではないからだ。責任は道徳上の価値観であり、ルールに従う同朋の人間に対して私たちが要求するものなのである。

また、こうも言った。

人間はすべて、決定論に従うシステムの一部であり、理論のうえではいつかそのシステムも完全に解明されるだろう。だが、たとえその日が来ても、責任はあくまで社会のルールの中に存在する社会的な概念であって、ニューロンでできた脳のなかに存在するのではない。

こういったところに、脳と社会的存在としてのおれ、というところの関係があるように思うが、やはりむずかしいのでわからない。それそろ時間切れだ。おれが連続している存在であるとすれば、いずれまた。

_____________________

goldhead.hatenablog.com

goldhead.hatenablog.com

goldhead.hatenablog.com

goldhead.hatenablog.com

goldhead.hatenablog.com

goldhead.hatenablog.com