横浜市中央図書館の三階ってのは妙な階で、横浜市にまつわる資料と、昔の新聞の縮刷版とかいうやつと、なぜか言葉についての本が置いてある。なんで言葉に関する本が三階にあるのかおれにはわからない。おれはこの間、三階に久々に寄ってみた。そしたら、この本が目に入ってきたんだ。
名文書きてえな。
13日間で書きてえな。
なんか興奮してきたな。
借りてみるか。
おれはそうした。
……「文章」を書く、ということは、それが、みんなの前で読まれる(可能性がある)ということです。自分の書いたものが、道端に置かれて、みんなの視線に曝される(可能性がある)ということです。
つまり、それは、この教室で、みんなの前で、自分の書いたものを朗読しなきゃならない、のと同じだということです。
それが、どんな種類の「文章」であっても、それを読んでくれる読者は、目の前にいる、ということです。
あなたがいうように、それは、とても「恥ずかしい」ことです。
うわ、どうしよう、恥ずかしいのは苦手なんだおれ。教室なんかで、自分の書いたものを朗読しろなんて言われたら、恥ずかしくて死ぬ。
わたしは、「文章」というものは、「赤の他人」に読んでもらうために存在していると考えています。そんなことは当たり前でしょうか? 訊ねられれば、誰だって、そう答えるでしょう。しかし、わたしの考えでは、実際はそうなっていないのです。「文章」というものは、どこかの「赤の他人」に伝える、というよりは、「なんとなくわかりあえる仲間」に向けて書かれる場合が、多いのです。
ふーん、そうなのか。田村隆一という詩人(タカハシさん流に書けばタムラリュウイチかしらん)は、「ひたすら少数の者たちのために手紙を書くがいい」って言ってて、おれも「ひたすら少数の者たちのために手紙を書く」つもりで、恥ずかしながら文章をネットでさらしているのだけれど、やっぱりその少数は「なんとなくわかりあえる仲間」なのかな。あなたはおれの、「なんとなくわかりあえる仲間」ですか?
「金」は、人間が作り上げた、なにかをもっとも遠くへ運ぶための、もっとも強力な手段です。商業的なもの、資本主義的なものへの、強い反対者であるように見える「芸術」もまた、「金」なしでは、どこへも自身を連れ出すことはできないのです。
もちろん、あなたたちが書く「文章」は、とりあえず、「金」と関係ないように見えます。けれど、わたしが繰り返し、いっているように、どこかの「赤の他人」に、なにかを伝えたいと、この世界で生きてゆくために「役に立つ」ものを書きたいと願うなら、つまりこの世界で通用する「文章」を書きたいと願うなら、それがインターネットのブログに書く「文章」であっても(というか、それ故にこそ)、その「文章」は「金」というものに似てゆかざるをえないのです。
それにもかかわらず、私たちは、「金」に、商業的なものに、売れているものに、流行るということに、「赤の他人」に伝えるということに、時々、うんざりするのです。そして、「金」と無関係な表現はないものか、と考えるのです。
そんな「文章」は、そんな「表現」は、存在しないのでしょうか?
そうだったのか、インターネットのブログというものは、金というものに似てゆかざるをえない運命にあったのか。おれはひょっとしたら、金をばらまいているのかもしれない。そして、たまに物好きな正直者が、ビールを代価として与えてくれるのだ。でも、おれは、おれは、「名文」を書いて、徹底的に、見知らぬだれか、赤の他人、おれの価値観と相容れぬ人間までも、ぶちのめしてやりたいって思ってるんだ。そいつが「役に立つ」と思ってるものに、泥水をぶっかけてやりたいって、そう思ってるんだ。おれはおかしいのでしょうか?
語彙をたくさん覚えたり、美しい、あるいは、カッコいい、人びとを感心させるような言い回しを使えるようになることと、「名文」を書けるようになることとの間には、なんの関係もないのです。
逆説的かもしれませんが、「文章」を書けるようになるためには、できるだけ、他の「文章」に触れない方がいいのです。
「文章」を書けば書くほど、人びとは、考えなくなります。というか、「見る」ことをしなくなるのです。
まず、「部外者」として「見る」ことです。
はへー、他の「文章」に触れるなという。「見る」という。ここではゴダールとストリップ劇場とバレエの話をしているけれど、あんたこれ、どっかべつの本で、ルナールの『にんじん』を持ち出して、「子供『で』書け」とか言ってた、それだよな。っていうか、タカハシさんは、おそらくデビュー作あたりから、ずっと文章の教室をやってきたよな。おれは小学生のころからそれ読んでるんだぜ。でも、恥ずかしいからめったに文章をさらしたりしないんだぜ。そしておれはいろいろの「文章」を読んできた。世界の名作なんかじゃなくて、商店街の七夕まつりにぶら下がってる、子供のお願いごととか、よくわからないけれど言いたいことがいっぱいある選挙の泡沫候補の公報とか、そんなやつを。いつか、おれもそんなものを書きたいと思いながら。
性懲りもなく、わたしは、いうでしょう。
まず、書いてください。そこから、始めるのです。その後、自分の書いたものを、ゆっくり読んでください。自分で書いたものであるにもかかわらず、それが、あなたたち自身を驚かせたら、あなたたちは、うまくやったというわけです。
書いてから、考えてください。考えたら、また、書いてみてください。自分がおかしなことを考えているな、と感じたら、正しい道を進んでいるのです。
さて、おれはおれが驚くような「文章」を書いたことがあるだろうか。
と、ここで、おれは高橋源一郎とはまったく関係ない、おれ流の文章術を晒してみようと思う。
- 酒を飲むと心のタガが外れて文章がパワーアップする
- 日本語ラップをたくさん聴くとリズム感が身につく
- 気に入ったフレーズがあれば、同じ文章の中でコピペして何度も使う
以上だ。このうちの最初のものが、「自分で書いたものであるにもかかわらず」に関係してくるかもしれない。おれはおれを超えたおれを酒の力で呼び寄せる。そうすると、おれの「サングラス」が外れて、視力もよくなって、気宇壮大になにか書けるような気がちまうんだ。飲んだらパワーアップのコーナーだ。あとの二つは、参考にしてくれてもいいし、しなくてもいい。ただ、おれは英語の主語なんかに見られる強迫的な主語の切り替えが大嫌いだ。もっとも、おれは英語をあまり読めないのだけれど。
最後に、「あとがき」から引用する。
「名文」とはなんだろうか。そもそも、「名文」なんてものが存在するのだろうか。
その点について、わたしは、そんなにむずかしく考えていない。
人は誰でも「文章」を書く。そして、ある「文章」が、他の「文章」より、面白かったり、考え込ませたり、気になったりするなら、その「文章」が「名文」である可能性は高い、ということになる。
もっとも、その「文章」が、ある人にとって「名文」であっても、他のある人にとっては、わけがわからない文章だったり、読むに堪えないひどい文章であったりすることもあるわけですけどね。
そんな場合でも、その「文章」は「名文」である可能性は高い、とわたしは睨んでいる。少なくともひとり、その「文章」を読んで、「なんだかわかんないけど、わあっ、すげえ!」と感じてくれさえすれば。
ということは、誰もが「名文」であると認めるような「名文オブ名文」みたいなものは、ないのだろうか。
そんなもの、ないんじゃないか、と私は思う。
では、「文章」なんてものは、各人が好き勝手に書けばいいのか。
とりあえずは、それでよろしい。しかし、それは「名文」の入口、というか、「文章」の入口、というか、「ことば」の入口に立つための、最初の一歩にすぎないのだ。
そうだ、そこのあんた、もしおれが今まで書いたもののなかに、「わあっ、すげえ!」と思ったものがあったら、どっかに一言のこしてくれないか? まあ、そんなことしなくてもいいけれど。
それにしても、「名文」、書きてえなあ。どうしてだろうな。この歳になって、おれは、まだそんなこと考えて、入口の前でうろうろしてるんだぜ、「ことば」の入口の前で、「言語にとって美とはなにか」とかつぶやきながら。おかしなもんだろう?
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高橋源一郎『さよならクリストファー・ロビン』を読む - 関内関外日記
すげえ名作。
マジでいい名作。