『大杉栄伝 永遠のアナキズム』、あるいは大杉一派ブック・ガイド

 

大杉栄伝: 永遠のアナキズム

大杉栄伝: 永遠のアナキズム

 

面白そうなものに飛びつく。飛びついてみて、そこからつながっているところにジャンプする。それを繰り返す。そうしていると、あるジャンルについていくらか知っているような気になる。

けれど、そんなの知ったような気になっただけで、ふと、最初に飛びついたものについてどれだけ? となると、とたんに怪しくなる。これが、系統だった学問のやり方を知らない、しょせんは大学を出ていない人間の底の浅いところである。

というわけで、大杉栄にちょっと戻ってきてみた。おれはもちろん、大杉栄に興味を持って、『自叙伝』も『日本脱出記』も読んでいる。ただし、随分、前だ。そして、大杉一派についての本を読んだものけっこう前、ということになる。

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大杉一派の生き残りで、その周辺のことを書き残したとなると近藤憲二であって、『一無政府主義者の回想』ということになる。

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ズボ久こと和田久太郎。これについては本人の自叙伝もいいが、松下竜一の『久さん伝』もいい。

 

寒村自伝 上巻 (岩波文庫 青 137-1)

寒村自伝 上巻 (岩波文庫 青 137-1)

 
寒村自伝〈上巻〉 (1975年) (岩波文庫)

寒村自伝〈上巻〉 (1975年) (岩波文庫)

 

あと、おれがまだ本を買っていたころ、古本屋で見つけたのが荒畑寒村の『寒村自伝』だ。たまにパラパラとめくる。『平民社時代』もパラパラとめくる。

とはいえ、荒畑寒村は途中で大杉一派とは袂を分かった人間でもある。大杉栄は、その女性関係、というか四角関係を作った挙げ句に物理的にぶっ刺されるというスキャンダルを起こしたりして、たくさんの人間が去っていった。そのあと残ったり、加わったりしたのが、いわゆる大杉一派ということになる。

大杉一派。本書(『大杉栄伝』)ではいちばん身近な人間として次の名前があがっている。近藤憲二、村木源次郎、和田久太郎、久坂卯之助。源さんについては、映画『菊とギロチン』で井浦新が演じたことでよく知られているであろう。「源兄ィ」などと呼ばれ、穏やかなイメージがあるものの、高畠素之にピストルを突きつけるなど芯がある。そして、久さんに、「キリスト」久坂卯之助。伊豆半島で凍死したキリストだ。

その周囲、あるいは程なくして潰されてしまう後継者となると、ギロチン社ということになるだろう。ギロチン社というと、どうしても中濱鐵と古田大二郎ということになる。

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ギロチン社については映画『菊とギロチン』をみればいいだろう。

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逆に大杉栄に影響を与えたアナキズムとは、というと、中央公論社の世界の名著42を読めばいい。

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プルードンバクーニンクロポトキン

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いちばん大杉に影響を与えたのはクロポトキンかな。

まあ、ともかく、大杉栄、眼の男! が虐殺されてから、大杉一派は大杉一派を保てない。大杉の敵討ちを試みて、失敗してそこで終わりだ。それが残念でならない。どうにか大杉栄のような人間がもっと生きていたら、戦後日本の政治史というのも変わったんじゃないのか。アメリカに目をつけられてなにもできないか? それはわからない。ただ、日本史の教科書の関東大震災の項に、「虐殺事件の被害者」として記されるだけでは、寂しいじゃあないか。大杉の言葉は今のおれたちにも届く。ここで言うおれたちは、今三歳のやつから百歳のやつまで、みんなだ。おれはそう思う。

大杉栄 僕は精神が好きだ

本書(『大杉栄伝』)では「僕は精神が好きだ」の引用からはじまっている。著者の栗原康はこう述べる。

これは大杉栄、三三歳のときの文章である。よくもまあ、こんなストレートないいかたができるものだとおもってしまう。ふつう三〇歳も越えれば、ひとはなんらかのかげりをもっている。ひどい目にあって、あれをいっちゃいけない、これをいっちゃいけないと思わされ、自分を律してひとに話しかける。あたかも、それが自分の深みであるようによそおいながら。自分を大きく見せて、大人であるあかしを立てる。だが、大杉はそういうことをいっさいしない。いつだってありのままであり、好きなことを好きなように表現してしまう。子どもである。それは大杉がなんのつらい目にあったこなかったということを意味するのではない。大杉は、人生で四度も死にかけ、そのつどもう立ちなおれないんじゃないかというくらい、へこまされている。

そうだ、自分を大きく見せようとして、あえてぼかしたり、遠回りしたり、そんなのべつにどうでもいいんだ。血が流れるまでタイプしろ、ありったけの自分の臓物を目の前に並べてやれ。それが表現だ。おれもそう思う。平岡正明だって「どんな感情をもつことでも、感情をもつことは、つねに、絶対的に、ただしい」って言ってたぜ。

最後に、おれがこのブログの端っこに載っけていた文章を、引用したい。

図書カード:新秩序の創造

元来世間には、警察官と同じ職務、同じ心理を持っている人間が、実に多い。
 たとえば演説会で、ヒヤヒヤの連呼や拍手喝采のしつづけは喜んで聞いているが、少しでもノオノオとか簡単とかいえば、すぐ警察官と一緒になって、つまみ出せとか殴なぐれとかほざき出す。何でも音頭取りの音頭につれて、みんなが踊ってさえいれば、それで満足なんだ。そして自分は、何々委員とかいう名を貰って、赤い布片きれでも腕にまきつければ、それでいっぱしの犬にでもなった気で得意でいるんだ。
 奴らのいう正義とは何だ。自由とは何だ。これはただ、音頭取りとその犬とを変えるだけの事だ。
 僕らは今の音頭取りだけが嫌いなのじゃない。今のその犬だけが厭いやなのじゃない。音頭取りそのもの、犬そのものが厭なんだ。そして一切そんなものはなしに、みんなが勝手に踊って行きたいんだ。そしてみんなのその勝手が、ひとりでに、うまく調和するようになりたいんだ。

 

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……まあ、この時代のアナキストというか、そういう連中のなかで、おれがいちばんおれに近いのではないかと思うのは辻潤である。

 

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あとは、金子文子。これは本当に読むべき本だ。本とかについて「べき」とかいう言葉を使うのはあまり好きではないのだけれど、そう言ってしまう。