本を読めないからおれの知性は下がる一方だ

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新型コロナウイルス感染症の拡大防止対策のため、横浜市立図書館は5月31日(日曜日)まで臨時休館を延長します。予約サービスも休止します。【4月29日更新】 横浜市

新型コロナウイルス感染症の拡大防止対策のため、横浜市立図書館は5月31日(日曜日)まで臨時休館を延長します。予約サービスも休止します。【4月29日更新】

おれに知性というものがあるとすればの話だけれど、おれの知性はここ二ヶ月くらいで急激に下がっている。 理由は簡単な話であって本を読んでいないからだ。横浜市中央図書館が閉まっている。図書館に通うようになって何年になるかわからないが、おれの読書というものはかなりの部分で「返却期限」という締切に追われるという動機によって成り立っていた。それに気づいた。図書館に通う前のおれも平均的な日本人ていどには読書をしていたと思うのだけれど、横浜市中央図書館を自分の本棚にして以来、「ただより安いものはない」とばかり、図書館の本ばかり読んできた。前にも書いたと思うけれど、おれは子供のころから「漫画以外の本ならば好きなだけ買ってよい」と言われ、実際そうして生きてきた。なにを隠そう、おれはプチブルの子なのだ。その習慣は実家が失われたあと、けっこう貧しい独身男になったあとも続いて、わりと本を買ってきた。古本であることが多かったが、それでも本は買って読んできた。「本は買って読め」というのが家訓であった。それが、「本は借りて読め」になったとたん、返却期限抜きでは本を読む気が起こらない人間になってしまった。さらには、本に金を出すことに抵抗を覚えるようになってしまった。そこには現実の貧乏もあるし、「いや、図書館には読むべき本がたくさんあるのだから、わざわざこれを買う必要もあるまい」という貧乏性もある。ともかくおれが本を読まなくなってしまって、インターネットとかいうもので新型コロナウイルスのニュースを追って日が暮れる、そんな毎日を送っている。するとどうなるかというと、知性が下がるのだ。おれに知性というものがあるすればの話だけれど。とはいえ、知性となにか。とりあえず「知性」と書いてみたが、じっさいのところ「知性」で合っているのかわからない。知識が下がっている、といえるような気もする。大昔に得た知識が消えてなくなるわけではないけれど、そこへのアクセスが細くなっているような感じだ。だれでも頭が働いているときは、自分のなかのあらゆる知識にリンクがはられていて、アクセスにつぐアクセスで考えが駆け巡るものと思うが、それが不活性化してしまっている。重々帝網、その結び目にいくらかましな宝珠があったとしても、網は細くなり、ときに途切れ、光の反射も失われる。頭を使わなくなっているとはそういうことだ。どうもおれにとってその補修剤だか刺激剤となるのは読書にほかならず、そのせいで馬鹿に輪をかけた馬鹿になっていく感じが強い。GIGOであれなんであれ、インプットがなくなると出すものもなくなる。学習というものはアウトプットによってかなり強化されるものだし、その手順がなくなったというのも大きい。とはいえ、おれの小汚いアパートにおれの読んでいない本があるかないかでいえば、たくさんある、だ。もちろん、本はなんど読んだってかまわない。だが、どうも気乗りしない。「これを読みたい」と思って金を出して買った本なのに、ここでは貧乏性が顔を出さないのも不思議だ。そこまで返却期限が重要なのか。もっとも、読書にはタイミングというものがあって、同じ本であっても気乗りしないときは一行も読み進められないが、放っておいてふと開いたら徹夜するほどのめり込むなんてことはよくある話だろう。今は、あらゆる本に対して向き合う気になっていない、そんな心持ちの季節だと思っておこうか。あるいは、世界がそんな季節であると。

 

日夏耿之介の言うこと - 関内関外日記

書物といふもの凡て初めから読み通すものときめてゐるの徒はフィロビブロン・クラブの会員になる資格はない。哲学にせよ歴史にせよ小説にせよ中途からよんでも構はぬものが沢山あるし、終りだけでよいものも初章だけでよいものも初めと終りとだけでよいものもある。気分に伴れ、気候に従ひ、場所により、あるいひは科学がよくあたまに入る時あり、考証が呑みこめる時あり、随筆が一等向く時もある。

― 日夏耿之介

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……おれの図書館通いは八年目くらいらしい。