リボ払いの死。それが哀れ我らが日々。

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生きる限りは死ぬ。いろいろの生物のいろいろの生態というものはあろうが、こと人間については今のところそう言い切れる。生きるということには死というものが必ずついてくる。生と死は相反するものとは言えないようだ。生は死を内包している。

不幸にもこの世に生を受けてしまった以上、死ななくてはならない。死すべくしてつくられて、ただ生きよと命ぜられ。そういうことになっている。そこから目をそらして生きるのも勝手だろう。死ななくてはならない人間を生産するのもあなたの自由だ。おれはすすめはしないが。

生まれた瞬間に、支払い期限の定められていない死を契約する。いつ支払い終わるともわからない、なし崩しの死。リボ払いの死。それが哀れ我らが日々。そのつかの間に愉悦があって生きる意味があると言うのなら、おれはあえて否定はしないが。

おれのような無能者は、この世を上手に渡り歩くこともままならず、支払いの列に並んでうんざりしている。うんざりしていると思ったら、即座に自分の番が来る。そのときに、こんなタイミングは考えていなかったといってももう遅い。

遅いも早いもない。なんの根拠もなく、そのときは訪れる。たとえ自分でそれを選び、それを実行し、それに成功したとしても、やはりそこに根拠があるなどというのは人間の傲慢だろう。あなたがそれを選んだのではなく、それがあなたを選んだのだ。なんの根拠もない、そのときに。

おれが、いま、遠くない時期に死ぬ予感というものがある。おれは西暦にして2020年までは生きようと、去年や一昨年から書いてきた。それがいかに滑稽なことだったか、いまこのときをもって思い知る。おれには楽観があった。意志のない楽観があった。たかをくくっていた。大間違いだった。世界を覆う疫病を予想できなくとも、一年後や二年後の自分の生を想定するなど、愚かなことだった。

会社のカメラが壊れた。おれのカメラではない。親会社のようなところに、新しいカメラを買いたいと申し出た。即座に了承が出た。この不景気にあって、すぐにそのような反応があるところを見ると、親会社のようなところは大丈夫なのかな、と思った。おれは少し安堵した。いや、正確には安堵した。

それから二日経って、親会社のようなところから、本社の経営も怪しいので、業務提携費のようなものを半額にすると通告があった。半額になるので、その分をなんらかの助成金で補ってくれという話であった。

おれは絶望した。正確には、相当に絶望した。もとからおれのようなものが生きていていいはずがなかったが、おれのようなものが生きていていいはずがないのだと了解された。おれはまったくもって、今年いっぱい生きられる気というものを失った。

遠くないうちにおれは賃金を失うだろう、安アパートの家賃支払い能力を失うだろう、食べ物を食う金を失うだろう、おれは死ぬのだろう。いよいよリボ払いが終わる。あるいは、リボ払いすらできなくなる。どのような比喩だか、おれにはどうでもいい。おれのいま一分、一秒はおれの死であって、おれの死の支払いは終わる。生の支払いは終わる。人生というものがあるとすれば、おれのそれはいかに虚しいものだったか。それを言葉にできないほど虚しいのだ。言葉にできないから虚しいのだ。人は死ぬが言葉は死なない。言葉にならないものはまったくの無だ。

おれは無に引き寄せられて、なしくずしの死を生きる。

なしくずしの生が死ぬ。

 

「死ぬのはいつでもいいが」と新潟小千谷の大詩人が呟いていたっけ

「地球と別れるのは少し淋しいな」

田村隆一「鬼号」部分