ウンベルト・エーコ『ヌメロ・ゼロ』を読む

 

ヌメロ・ゼロ (河出文庫)

ヌメロ・ゼロ (河出文庫)

 

ウンベルト・エーコとおれ。おれとウンベルト・エーコ。中学生のころだろうか、背伸びして『薔薇の名前』を読んだように思う。さらに背伸びして『フーコーの振り子』を読んだような気もする。しかし、「あ、おれ、この本わかってない!」と思った失意が残ったように思う。たぶん、まだインターネットなんて便利なものがなかった時代だから、おれはいまだに『フーコーの振り子』のラストがわかっていない。そのあと、『ウンベルト・エーコの文体練習』を読んだ。それだけである。

エーコにしては、薄いぞ」。そう思って、この『ヌメロ・ゼロ』を手にとった。あとから知ったが、ウンベルト・エーコ最後の小説だという。

ヌメロ・ゼロ、すなわちナンバー・ゼロ。財界の大物が、さらに上流に食い込むために、架空の新聞紙の発行を目論む。0号に記されるのは、過去に起きたできごとであり、そこに、すでに起こった未来を予見するような記事を掲載する。日刊紙の名前は『ドマーニ』。意味は「明日」。このパイロット版を作るために、一癖二癖ある記者たちが集められる。主人公は「デスク」の立場となる、大学中退の五十男。

話はメディアのあれやこれやの裏側を説明しつつ、「アンダーグラウンド・イタリー」、ムッソリーニの生死やいろいろの陰謀にも足を突っ込んでいく。おれはイタリアの歴史に詳しくない。だから、リーチオ・ジェッリ(本書ではリチオ・ジェッリ)などの存在にWikipediaを読んで驚くのである。

リーチオ・ジェッリ - Wikipedia

どうだ、驚いたか。エーコはこのようなイタリア戦後史をつなげていく。そして、たぶんイタリア人の記憶というものを揺さぶる。

私たちの存在は私たち自身の記憶にほかならない。記憶こそ私たちの魂、記憶を失えば私たちは魂を失う。

果たしておれにこの物言いがすんなり受け入れられるかというと、ちょっとすんなり飲み下せないところがあるが、そういう面もあるだろう。そして、マスメディアというものがいかにしてわれわれの記憶というものを操っていくのか、その手管を明かしていくのだ。同時に。歴史の、いや、この社会の裏側にあるなにかを。

裏側になにかあるような気がする。このあたりの描き方は、アメリカの裏面の歴史を描いたジェイムズ・エルロイのようでもある。それを、ある記者の仮説としてバンバン流してくる。簡潔に、手際よく。おれはWikipediaなど参照にしつつそれを読む。本書に出てくる名前で、「ヌメロ・ゼロ」に関わる人間以外の人名はすべて実在という。

本書は、ひょっとしたら、『薔薇の名前』や『フーコーの振り子』に耽溺できる人にとっては物足りないものかもしれない。が、いっぽうで、非常に短く、読みやすくもあり、訳注も的確だし、おれたちにはWikipediaがある。0号、これからエーコを読み始めてもいいかもしれない。ともかく、わかりやすく、面白い。そんなこと言ってるおれに「エーコをわかってないな。そもそも記号論によれば……」とか言う人もいるかもしれないが、インテリはインテリで生きてくれ。そしておれは、どういう順番かわからないが、またウンベルト・エーコを読もうかな、という気にもなっている。

 

ヌメロ・ゼロ

ヌメロ・ゼロ

 

 ……文庫より単行本の表紙の方がいいよな。