マーティン・スコセッシ『沈黙-サイレンス-』を観る

 

 『沈黙』の映画を観た。おれは遠藤周作の原作を読んだことがあったろうか? 読んだとすれば中学生くらいのことだろう。映画を観ていれば思い出すところがあるだろうかと思ったが、そういうことはなかった。

『沈黙』はイエズス会のパードレが切支丹弾圧の厳しい日本に訪れる話だ。そこで弾圧と信仰、命と信心について向き合わされる話である。そしておれはといえば、「日本にキリスト教が根付かなくてよかったんじゃないか」と内心思っているものである。そんなことになっていたら、どこかヨーロッパの国の植民地にでもなっていたのではないか、と。

そして、鈴木大拙の言うところの、インドで発生し、中国、韓国を由来しての仏教を受けいれる大地としてこの国があり、見事に日本ならではの仏教文化が花開いた、というところを支持するものである。その花がいまどうなっているかは知らないが。

そんなところから、おれはこの『沈黙』に興味を持った。日本は泥沼だ、たしかそんなことを遠藤周作を言っていたのではなかったか。そのような泥沼を、西洋人がどのように描いたのか興味があったのだ。むろん、イッセー尾形(『太陽』の!)、浅野忠信、そして窪塚洋介などの演技も気になった。

結果から言うと、傑作であったように思う。嫌な予感としては、なにか形而上的な、宗教的な表現などが頻発して、おれを眠りの世界に誘うのではないかということではあったが(そのせいでおれはこれを劇場で観ようとは思わなかった)、それはまったくなかった。ペイガンの地に乗り込んだ見つかってはならない侵入者というスリルという要素も十分にあり、目が離せない展開となっている。窪塚洋介演じるキチジローもキーポイントだ。わりと長い映画なのだが、ほとんど座椅子を離れずに見入ってしまった。

とくにすばらしいのは、先に日本に入り、背教者となった元パードレ(神父・司祭)との会話のシーンだろうか。

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日本人となり、妻帯した元パードレ。キリスト教の教えも日本に入ってしまうと別物になってしまう。その別物のために殉死していく。それは弾圧などよりも布教者にとって厳しいことではないのだろうか。おれにはそう思える。だからこそ、踏み絵を踏むという選択肢があり得るのだ。

おれはたぶん、『沈黙』を読んでいないな、と思った。読んでいたとしても、それを上書きしてしまうような、それくらいの映画だったと言っていい。相変わらずおれはキリスト教が日本に根付かないのを面白がっているが、それでも切支丹になろうとした人々がいるということは忘れてはいけない。そして、仏教にしても戒律嫌いの儀礼好きという歪んだ形で受け入れられている現状を見ても、なにかこの日本のだらしなさが嫌いじゃないのである。神道?……第二次戦争後、宗教になりそこねた(by折口信夫)し、ようわからんが。いずれにせよ、日本という沼地に住む人間がその沼地を見ることのできる映画、そして、神や絶対性に対する日本人の姿勢というものがいかなるものか考えさせるものであった。以上。

 

 

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

 

 

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ハビアンは『沈黙』より20年くらい前の人になるか。これも無茶苦茶おもしろい本だったぜ。禅僧から切支丹になって、さらに再転向した宗教者の話だ。