猫と本棚(ミーよ、やすらかに)

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先日、両親の家で飼われていた猫が死んだ。実家が失われる前、おれも一緒に暮らしていた猫。たしかおれがまだ高校生のころにうちに来たので、20歳は越えていただろう。大往生といっていいだろう。

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猫は二匹いた。一匹は雌の「ピーちゃん」で、一昨年この世を去った。きょうだいである雄の「ミーちゃん」はそれから二年生きた。おれは一家離散のあと、猫に会いに行くこともなかった。

母がおれに、生前の「ミーちゃん」の写真をプリントしてほしいと頼んできた。ついでに、黄色かぶりしている写真を補正してほしいと。

写真は何枚かあった。そのうちの一枚が上の写真だった。日付を見ると、数年前の写真だった。おれの知っているミーだ。少し太り気味だが、顔はやけに凛々しい。直近の写真のなかのミーは痩せいて、まるで子猫に逆戻りしたかのようだった。

そして、この写真の後ろに写る本棚を見て、実家を思い出した。実家は本に溢れていた。化学博士だった祖父の蔵書、大のミステリーマニアだった祖母の蔵書、そしてその祖父の家を増築するさいに、ビルトイン本棚というべき設計をした、膨大な父の蔵書。本で家が潰れる、物理的に、というレベルだった。もっとも、「活字の本であれば紀伊国屋の通販をいくらでも使っていいぞ」とおれに言い、おれはそれを実行していたくらいなので、家計を傾かせていた可能性もあるのだけれど。

金がなくなり、実家が失われ、夜逃げのように散ってしまっても、父は蔵書を手放さなかった。母の話によると、狭い借家をさらに新たな本を埋め尽くしているという。階段の隅にも本が積み重ねられているらしい。狂気の域だろう。そして、父はそれだけ本を読んでも、なにかアウトプットするでもなく、人格者になるでもなく、単に最低のキレる老人になっているらしいので、救いようはない。

今日、こんな記事を読んだ。

子どもの時に、自宅に紙の本が何冊あったかが一生を左右する:大規模調査 | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

31カ国、16万人を対象に行われた調査で、16歳の時に家に本が何冊あったかが、大人になってからの読み書き能力、数学の基礎知識、ITスキルの高さに比例することが明らかになった

16歳のとき、実家に何冊の本があった? 数えきれない。父は「そこらの学校や公民館の図書室よりうちの本が充実している」と言ってはばからなかった。おれは父の本棚から高橋源一郎澁澤龍彦を発見した。さらに昔、幼少のころ、おれの言葉や考えかたのベースを作ったのは、やはり父の本棚にあったいしいひさいち東海林さだおだった。父が全著作を有していた(「試行」も創刊号からの読者だった)吉本隆明については、一人暮らしをするようになってから影響を受けた。

が、おれは結局のところ、高卒で、底辺暮らしをしている。左がいいのか右がいいのかわからないけれど、ともかく実家に本があったのに、おれの人生は浮かばなかった。まあ、そういうこともある。

そんなおれの部屋はといえば、やはり本が収納スペースを占拠している。が、これ以上は増やせない。金とスペースがない。なのでおれは、「おれの本棚は横浜市中央図書館だぜ」と嘯くことにしている。

そしておれは猫を飼わない。おれの人生において、飼い猫はミーとピーの二匹でいい。そのかわり、すべての猫を愛している。それでいいだろう。あるいは、今、おれの飼い猫は世界中の猫なんだぜ。うらやましいか?

本といい、猫といい、贅沢な話だろう、まったく。

そして、ときに父の本の背で爪をといでいた二匹の猫よ、やすらかに。