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なんでこいつはよりにもよってこんなところで体育座りをしてカップ焼きそばを食っているのだろう?

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もう真冬の気温だというのに、街をゆく人たちは意地でも秋だといわんばかりに、秋のよそおいで寒さを我慢している。歩道の街路樹の下で体育座りをしてカップ焼きそばを食うやつがいる。街路樹の根元にはお湯を捨てた跡がある。なんでこいつはよりにもよってこんなところで体育座りをしてカップ焼きそばを食っているのだろう?

会社帰りに通り過ぎる、飲食店の看板が変わった。何回目だろう。なくなった店で働いていた人はどこに行ったのだろう。結局のところ、そいつのすることはこの世に不必要だったということだ。不必要だから排除された。そいつの揃えた店の備品も不必要だったし、買っていた食材も不必要だった。全部、不必要で無駄なものだった。

とすると、そいつに備品や食材を売っていた人間たちも不必要で無駄な存在に過ぎないのかもしれない。さらにそいつらに仕入れたものも不必要で無駄な存在なのかもしれない。回り回って、おれも不必要で無駄だということになる。なるほど、おれは不必要で無駄だ。いったい、この人間社会のどこに富が生まれ、余裕が生まれるのか見当がつかない。

ただ、必要で無駄でないものだけでこの世が回っていけば、この世におれのような不幸も、潰れた店の主人のような不幸も起こらない。なにが悲しくて不幸を作り、不幸を維持し、不幸を伝えていこうとするのか。そしてなにが悲しくておれはこの世にしがみついているのだろうか。人間は悲しい。生命は悲しい。

歩道の街路樹の下で体育座りをしてカップ焼きそばを食うやつを見たのは、二度目のことだった。せめて、汁があるラーメンにしないのか。余計なお世話だ。不幸になるべく産み落とされ、なるべくして不幸になる。富や幸福はどこか遠くのできごとか、あるいはまったくのでっち上げだ。余剰、余り物、不用品、廃棄物。おれはずったらずったらあるきながら、なにが悲しくてこの世にしがみついているのか考える。生命は悲しい。