マーロン・ブランド『片目のジャック』(カバヤ)

 カバヤのガムのおまけにマーロン・ブランド若き日の主演作、そして唯一の監督作『片目のジャック』がついてきた。西部劇といえば、『シェーン』と『ワルイドバンチ』くらいしか観た覚えがなく、ひさびさの観賞。
 銀行強盗仲間の裏切りで過酷な刑務所行きになったブランドが、五年後に脱獄して元仲間に復讐をしようとする。探し出した元仲間はある町の保安官として地位と家族を築いていた…、というあらすじ。復讐物といえばやはり女を寝取られている、というのに期待したが、この話では元仲間の義理の娘に手を出すという、間接的な寝取られがメーンのテーマだから仕方ない。
 この作品のブランドは、何を考えているのかよくわからない、という印象を受けた。設定的には復讐に怒りを燃やす、という立場なのだが、なんというか虚無感みたいなのがある。ふと、コーエン兄弟の映画を思い出した。コーエン兄弟の作品に出てくる人物は、何を考えているのかわからんヤツが多い。たとえば『バーバー』で「おまえはいったいどういう人間なんだ?」と作中で問われる主人公のように。この点を、人物(の内面)が描けていないと嫌う人もいるけれど、自分はそう思えない。人間というのは結局わけのわからないものだし、だからこそ悲しく、また面白いものじゃなかろうか。
 話をこの作品に戻すと、結局のところ復讐の成就と愛の結実というところに行き着くのだけれど、復讐劇のカタルシスや愛の感動はあまり得られない。台詞の上では復讐について語りもするのだけれど、本当にそうなのかよ、というような気さえする。ブランドがかっこよすぎて、目くらましにあっていたのだろうか。ちなみに、一番かっこいいと感じたシーンは、酒場でトラブルになり酔っぱらいを撃ち殺したブランドに、裏切り者の保安官が銃を寄こせ、と言った後。二歩三歩と後ろに下がったブランドが浮かべる、笑みのような表情。これがなんとも言えずいいのだ。これから復讐の相手との殺し合いが始まるかという状況なのに、相手の本性を見透かした喜びなのか。なんとも不思議な印象だ。
 『片目のジャック』というタイトルは、ブランドが裏切り者を指した台詞の中で出てくるもので、人間の隠れた一面の比喩*1なのだけれど、そういう意味では主人公も紛れもなく「片目のジャック」に違いないと思うのだ。

*1:トランプのジャックはみな横顔で、片目が隠れている。自分は寺山修司の競馬エッセイで知った。この作品に触れていたかな、調べてみよう。