『夢かたり』後藤明生

goldhead2004-11-17

 後藤明生北朝鮮から来た男である。こう書くと、まるで後藤は工作員か何かのようだが、そうではない。後藤は日本国である北朝鮮に産まれ育ち、敗戦とともに日本に来たのだ。そして、この作品は作者の現在と少年期を過ごした永興という街、そして敗戦後の混乱を、取材と回想と思索で行ったり来たりする話である。「なんだ、辛気くさい昔話か」とか「日韓の歴史や思想の話かい?」と思う人もいるかもしれない。しかし、それだけでは間違いも間違い、大間違いである。後藤明生という男は、そんな風に一括りできる男じゃないんだなあ。
 話は変わるが、イチローという押しも押されもせぬ天才打者がいる。言うまでもなく、今後野球史に百年残るであろう、シーズン262安打の世界記録をなし遂げた男である。その技術を支える要素の一つに、目の良さが挙げられる。若き日のイチローは、猛烈なスピードで走り抜ける自動車のナンバーを読み取る特訓をしたという。まるでサンドイッチを食べるみたいにやすやすと剛速球を打ち返す男も、見えないところでは胃から血を吐くような努力をしていたのだ。
 そして、自動車のナンバーを読み取らずとも、後藤明生も同じく目の良い男である。ある場面場面の描写の細密さは、工作員のスパイカメラも裸足で逃げ出すほどだ。ところが、その場面場面がバラバラのジグソーパズルみたいになっていて、精確な歴史の記録者では決してないのである。そして、「わたしの関心は、まことにあいまいで辻褄に合わない記憶と、現在との関係にあったのである」と言ってのけるあたり、この男の本領発揮とはいえないか。
 もちろん、目が良いだけでは良い小説にはならない。いくらパワーがあっても、バットがボールに当たらなければ単なる大型扇風機とバカにされるのがオチである。もちろん、後藤には絶大なる筆力がある。そして、抜群の距離感で人間も歴史も国も民族も、そして自分をも捉えるのだ。私の四半世紀における人生で、これだけ目を信頼できる作家は、この後藤明生だけである。
 しかしそんな後藤も、家に帰れば女房と二人の子どもを抱える父親である。妻と自分の親戚との関係や、我が子の水疱瘡に気を揉んだりもしよう。少年時代、命からがら北朝鮮から逃げ帰った男がである。しかし後藤はその‘特別な体験’も、我が子の水疱瘡も同じ目で眺める。それもまた男の人生の妙味なのか。

http://f.hatena.ne.jp/goldhead/20041117135951
Fotolifeの使い方を理解しておらず、いきなり大画像が日記内に出てきて、私は腰を抜かすほど驚いた。