『幕末最後の剣客』志津三郎

 ドラマに榎本武揚が出てきたので思い出した。幕末物の小説にハマっていた時、家で見つけて読んだ作品。主人公は“隻腕の美剣士”の異名を持つ伊庭八郎。最後は土方なんかと共に函館で戦って死んだ男で、これも高い人気を持つ人物。この小説、主人公の伊庭八郎は粋な好人物、ほれぼれするような剣客として描かれている。一方、榎本武揚が仇役で出てきて、そちらはくそみそに貶している。そして、そのあたりが小説として最悪の出来だった。
 別に、貶すのがいけないと言ってるわけではない。歴史小説に作者の歴史観やイメージする人物像が表れるのは当然だ。そうじゃなかったら、単なる年表、教科書の類だ。それに、小説として善玉悪玉を際だたせるのだって当然だ。
 では『幕末最後の刺客』の何がいけなかったか? それは、急に作者が顔を出してきて、他人の論や意見を引き合いに出し、それに対する持論を展開する点だ。幕末の美剣士の話に浸っていたら、急に歴史論争の始まりで、興ざめすることこの上ない。榎本を肯定する歴史的評価を覆したいならば論文でやってくれ。いや、小説でやっても構わない。ただし、きちんとストーリーに織り込んで、小説内のエピソード、人物像として描ききってくれ。せっかくの伊庭八が台無しだ。本当だったら途中で投げたいところだったけど、一応最後まで読んだんだっけな。
 そういえば、作者のイメージする人物像が作品内で変わってしまったんじゃないかというケースがあった。こちらは多少時代が移って西南戦争、そう司馬遼太郎の『翔ぶが如く』。この作品の主要人物である元“人斬り半次郎”の桐野利秋。はじめはまさに「翔ぶが如く」の快男児という描き方だったのに、最後の方は単に旧態依然の頭の持ち主で、無駄な負け戦をやった無謀な奴扱いになってる。この作品は新聞連載だったと思うが、書き進めるうちにだんだん意識が変わっていたのかな、とか思ってしまった。
 もちろん、司馬遼は急に「歴史家の中には〜」と他人にケンカを売り始めたりしない。ここらあたりが力量の差というべきか。ただ、『幕末最後の〜』の影響でで、榎本武揚の評価について思わず“毀誉褒貶相半ばする”と書いてしまった。これは作者の策略にまんまと乗せられてしまったということか。