競馬の敵

http://www.nikkei.co.jp/keiba/column/20050110200501102150.html

馬の処分の否定は、競馬の否定と等価である。

 競馬ファンとしてはあまり触れたくない話題である‘ハルウララ騷動’。よく知らないうちによくわからない手打ちがなされていたようだ。果たして再び出走にこぎつけられるかどうかは知った話ではないけれど、こういった問題で競馬について考えさせられる面があるのも事実。だから、この野元記者のコラムもえらく長くなってしまったのだろう。
 さて、上のコラムでも触れられているが、安西美穂子のサイト(http://www.m-ouchi.com/)には

ところが、今年6月、高知競馬場厩舎から、高知競馬の馬がどんどん出ていっているとの現状を現場の人から聞きました。そして、実際に横積みにされて(肉になることを意味します。)厩舎から出ていく馬を見て、私は、「本当に、グッズ販売による収益が、競馬場存続のため、厩舎の改善等、競走馬たちのために使われているのだろうか?」と、大きな疑問を感じました。

 とある。‘競走馬の終着駅’なんてありがたくない呼ばれ方まである高知競馬で、何を言っているんだろう?というのが率直な感想だ。これは別に高知だけの話じゃない、中央でそれぞれの地方でどんどん廃馬になる馬がいる。それが競馬のサイクルだ。
 とは言うものの、私は別に「不要な馬はみんな肉なれ」と思っているわけではない。むしろ、競走に勝ったのに、繁殖馬としての競争に敗れた馬などは、もっと積極的に救うべきだと思うのだ。いや、救うなんて言い方はおこがましい、勝者への敬意を払え、ということだ。
 確かに繁殖もサラブレッドの重要な戦いの一つである。しかし、我々ファンが目にする大部分は、レースコースの上で行われる戦いである。そこに、勝者と敗者のストーリーが紡がれていくからこそ、競馬はサイコロ博打とは違った魅力を持つのだと思う。そして、そのストーリーを支える巨大なフィクション、即ち、レースの格や賞の権威を、引退後の馬に適用して何が悪いのか。一握りの重賞馬たちに、単に草をはむ余生を送らせてやることくらいできないのか、と。もちろん、現行でも助成金が出るのは知っている。しかし、もっと積極的な事業にしてもいいじゃないかと。副産物として、ある種の宣伝、観光資源にだってなるかもしれない。
 「では、戦いに敗れた馬はすべて価値がないのか?」と問われれば、これもそうではないと答えよう。競馬には頂点を競う大きなストーリーがあるのと同様に、数え切れないほどの小さなストーリー、誰も知らない個人的な名馬が存在している。そして、繁殖馬としての価値が皆無なある馬に「余生を送るくらいの金なら出すよ」という人たちだって出てくるだろう。この時点で、経済動物としても立派な価値が生まれる。ペットというと違和感があるけれど、そういう意味で立派な商品には違いないし、単に肉にするよりも競馬にとって良いことではなかろうか。
 こうなるとまるで、「安西美穂子の商売を支持しているのか?」と言われそうだが、私はそれが商売である限りは否定はしなかったのである。商品・サービス(競走馬の余生)を売る奴が居て、それに金を払いたい奴が居る。そこには何も問題もない。
 ところが、だ。その話をあらゆる馬に適応し、馬を潰すこと自体を否定した時点で、安西美穂子は否定せねばならぬ存在になった。やはり私は、上に引用したように「馬の処分の否定は、競馬の否定と等価」という立場を取るからである。そもそも、競馬は残酷な遊戯だ。ある動物を、人間の命の糧とするために育て、殺すのではなく、遊戯のために育て、殺すのである。私などは、「だからこそ競馬がここまで魔力的に面白い」とまで思うこともあるのだが、この点に折り合いをつけられないならば、競馬の舞台を去るべきだろう。
 ところで私は、小見出しに「競馬の敵」と書いた。何とはなしに安西美穂子について書いたつもりだったが、それとは違う敵に思い当たった。初めから競馬の舞台に居ない人たちのことである。すなわち、動物愛護などの観点から競馬を非難する人たち。今でもいるのだろうけど、あまり耳には入ってこない。しかし、競馬を知らない人たちが、競走馬がどこから来てどこへ行くのか知ったとき、何かに火がつかないとも限らない。上のコラムなどによると、新高崎競馬場設立の動きなどは、そこに進んで引火しようとしているようにも見える。もしもいつかそういった火が爆発したときに、競馬ファンである私は何を言えるだろうか。その時なにか言えるくらいのファンではありたいと思う。それはきっと、ちょっと厳しい戦いだからだ。