照射実験2005号

goldhead2005-03-08

 今年に入ってからのことだ。私のアパートに至る路地沿いの一軒家に、ある装置が配備された。それは、照射装置である。夜にその家の前を通りすぎるその刹那、ライトがパッと光る。こちらは眩しい光に照らしだされる。刑務所から脱走する囚人、それを照らすサーチライト。そんな感じだ。それは強力な光だ。そして、とても気に障る光だ。
 私にはその装置が防犯上の理由なのか、日曜大工の成果なのか、帰宅時の利便性のためなのかわからない。しかし、車も通れない路地を照らす光は、道行く人を直射する。道の一番端の、向かいのアパートの敷地ギリギリを通れば光らない。しかし、そんな風にこそこそ帰宅するのは、照らされるよりも気に障る。あなたの敷地内を照らすのはあなたの勝手だ。だが、私が歩くこの細い路地はあなたの物ではない。違うか?
 私ははじめ驚き、そして嫌悪感に変わっていった。これからは私の想像に過ぎない。きっと、私以外の人も決していい気持ちはしていないだろう。確かに街灯は暗いけど、瞬時に光るライトじゃ役目が違う。あの光は人を煽る光だ。ひょっとすると、あのライトを仕事帰りに毎日浴び続け、鬱憤を溜める男がいるかもしれない。その男がその光に、その家に偏執的な恨みを抱くことだってあるだろう。そんなに防犯が心配なら、俺が確かめてやろうかと思うかもしれない。男は刺身庖丁を持って、夜、その家に押し込むかもしれない。
 マイケル・ムーアの『ボウリング・フォー・コロンバイン』ではないけれど、過度の防犯意識はときに人間を疎外する。ときに攻撃性を助長する。私は自分の身を、自分の家族の身を守ろうという意識は尊重するべきだと思う。ただ、そのときチョイスした方法によって負うかもしれない別のリスク。こればかりは自己責任の範疇だ。警戒せよ、用心せよ、頭を使え。ライトで照らされた人々に浮かび上がる表情を見ろ。