死んでいるかしら

http://www.sponichi.co.jp/society/flash/KFullFlash20050308047.html

兵庫県伊丹市の民家で、昨年7月に107歳で県内男性の最高齢とされた金岡久次郎さんとみられる遺体が見つかったことが8日、分かった。遺体は既にミイラ化しているといい、死後5年から10年が経過しているもよう。

 遺族は「「酉(とり)年3月に葬儀を出せば大願成就する」などと言っているらしい。これも何やら変な宗教絡みの模様。もちろん、このニュースを聞いてにわかに思い出すのは「ライフスペース事件」(http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/life-space.htm)。さらに言えば、その年の「明石家サンタ」で、「ミイラになった人と同姓同名なんです」という不幸話が披露されたこと。まあ、サンタの方はどうでもよろしい。ライフスペースの事件を聞いた時の俺の感想は「事実はフィクションより奇、なのかなぁ」ということであった。こういうシチュエーションのフィクション作品の一つくらい無かったのか、と。先を越されていいのか、と。しかしまあ、フィクションの創作も現実の行動も、同じく人間の為す業。本質的に違いはないのかもしれないが。
 あまり関係ないけれど、ライフスペースの‘グル’高橋弘二の言語感覚は大したものだった。「シャクティパット」「定説ですよ」「糞間抜け」「行者イエダニ」など、好んで真似した覚えがある。彼は今、どこかで臭い飯でも食っているのだろうか。
 今回の事件がライフスペースと違うのは、最高齡絡みって点だろう。もしも事が露見せず、150歳とかになったらどうするつもりだったのか。俺は日本の戸籍制度はよくできたものと思っている。が、死亡確認の方が王大人なみではちょっと不安だ。ある程度の年齢(100歳あたりが目安か?)になったら、年に一度くらい役人が生存確認を行った方がいいんじゃないのか。対面が高齢者に負担というのならば、遠目にそっと見守るくらいでいいから。きっと君のこと忘れないから。
 ところで、小見出し柴田元幸のエッセイ集『死んでいるかしら』(ASIN:4403210589)から。俺などは柴田元幸というとポール・オースターの翻訳がはじめにくるのだけれど、これは軽妙な筆回しでなかなか面白い一冊だった。表題と同名のエッセイでは、「自分は本当はもう死んでいるのではないか?」という、ある種の生への奇妙な疎外感が語られている。もしも、もしもだよ、金岡久次郎さんが5年から10年の間「死んでいるかしら?」なんて思い続けてたら悲惨だよな。こうしてこんな風にタイピングしてる俺も、生きに生きてる保証なんてどこにもないのだしね。