髪を染めているときに来てほしくないもの

 「もし今、大地震が起きたら嫌だな」と思うときが誰にでもあるだろう。トイレで大きい方の用を足しているときや、お風呂で髪を洗っているとき。自慰中なんてのも間抜けなことになりかねないし、セックス中というのも困ったものかもしれない。しかし、私が一番「今、地震が……」と思うのは、髪を染めている間である。頭にブリーチを塗りたくって、サランラップを巻いているその時だ。もしもそこで大地震が起きて、何とか逃げおおせたとしよう。しかし、頭にはべっとりと薬剤。しかし、水が貴重な避難所では「頭、流させてもらえませんか?」とは、とてもじゃないが言えないであろう。ああ、恐ろしい。
 こんな想像は、実際に大震災を体験した人にとっては笑止だろうし、頭に来るかも知れない。しかし、だ。大きな悲劇の他に、こういう中小零細の悲劇だって存在するんじゃなかろうかと想像する次第。はっきり言って、地震が起きてすぐ死んでしまうという、ある意味ありがちな想像こそ一番できないもの。いずれにせよ「大地震は実在する」のだ。これは、『ニュークリア・エイジ』(ASIN:4167218178ティム・オブライエン著、村上春樹訳)の「爆弾は実在する」に近いものかもしれない。私はこの本を読みながら核爆弾や戦争ではなく、地震のことを思い浮かべたような気がする。
 それはそうと、私は昨日の昼過ぎに髪を染めた。部屋を汚さぬよう、内外タイムスの風俗記事を敷き詰め、その上でサランラップで頭をぐるぐる巻きにした私がいた。人に手伝って貰うことも多いのだけれど、そのときは一人だった。そして、いつものように「今、地震が来たら嫌だな」と思っていた。「そろそろ流す時間だな」思ったら、チャイムが鳴った。続いてドアにノック。「こんにちは、警察署の者ですが」。
 仕方ないのでインターホンに出る。連絡帳だか、住民調査だかとのこと。建付の悪いドアを開ける。私は‘お巡りさんには愛想よく’をモットーとしているので、まずはじめに「こんな頭でスミマセン」と頭を指さして言った。警察官はコートを着て制帽を被っていた。ひょっとしたら俺より年下かもしれない、巨人の阿部に似た警察官だった。警察官は「お忙しいところすいません」と言った。向こうの情報は古く、前の住人の情報しかないようだった。「お一人暮らしですよね?」などと言いつつ部屋の中を覗くような素振りを見せた。その後も、覗き込むような素振りを見せた。電子レンジの上に乗った鹿の首がそんなに珍しいのか?

 調査票を渡され、十分後に回収に来るという。私の頭は、もうタイム・オーバー気味だ。サランラップを取って、記入。パソコンに頼りきりで、字が上手く書けない。幸いなことに、十分もしないうちに回収に来てくれた。最後にまた「お忙しいところ、ありがとうございました」と言ってくれた。いや、地震が来るよりはマシだったから。