『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』村上春樹 柴田元幸

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村上 たとえばジェイは『キャッチャー』の一人称の呼称について、「僕」じゃちょっと弱すぎると言いますね。
柴田 でも彼は、「俺」も無理なのはわかっている。
村上 だから「俺」と「僕」との間に、何かひとつ別の呼び方があれば楽なんです。翻訳しているときには、いつもそれを思うんですけどね。

 今日の昼休み、急に手元に返ってきた本だ。新書など長いこと買った覚えもないので、はじめは何なのかさっぱりわからなかった。カバーを見て思い出した、正月に買った本だ。弟との待ち合わせに早く着きすぎて、時間つぶしに買ったのだ。買った本屋は久美堂といい、その名には「人はいく久しく美しくあれ」という意味が込められているという。
 なぜ久美堂に話が逸れたかと言えば、俺が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の感想を書いていないことに気がついたからだ。ほんのちょっぴり「ファック」について触れただけだ。それで、困ってしまった。まあ、困ることもないか、これ自体は翻訳の本だ。俺は翻訳についての本や話が好きだ。これの前作はもちろん、柳瀬尚紀の本(ASIN:4309403433←これは遊びがあっていい本だった。文庫版はどんな感じか知らないけれど、フォントいじりなんかもしていた)や、2chあたりで戸田奈津子の翻訳について議論しているのを読むのも好きだ。
 俺は別に英米文学を専攻したわけでもなければ、英語や英会話に夢中ってわけでもない。原文にチャレンジしようと、跳ね返されるのが落ちだ。おそらく俺が翻訳についての話が好きなのは、それが言葉について「ああでもないこうでもないと話し合うこと」に他ならないからだ。たとえばこの本で、村上春樹が「いかしてる」、「ダサい」、「サブい」はすぐ賞味期限が来そうだから使えなくて、「マジ」と「エッチ」は微妙とか、そんな話を読んでいると楽しくて仕方がない。対話の相手も文句なしだろう。
 しかし、この本はそういった一種技術よりの話よりも、『キャッチャー』とサリンジャーについての話がメーンになっている。そこら辺について触れようとすると、『キャッチャー』本体にも触れなきゃいけないわけで、それはちょっと面倒だ。読み返さなくても語れるほど心酔したわけでもなければ、読み返さずに適当に済ませようとも思えないからだ。『キャッチャー』に限らず、だいたいの小説がそうだ。
 そう、「小説についてああでもないこうでもない」と書くことは面倒だ。そうなると、できるだけインチキ野郎に見られたくないと思って、ちょっと距離をおいて書いてしまうだろうし、その距離の取り方がインチキ野郎にしか見えないし、それをこうして書くこと自体も十二分にインチキなことだろうし、そんな内面を書いてしまうのもインチキで……、と、これは永遠にきりがない。*1
 さて、話が逸れたが、続けるネタも特にない。そうだ、本書の最後にある柴田元幸の「Call Me Holden」はよかったな。村上春樹アレルギーがある人は、そこだけ立ち読みしてみてもいいんじゃなかろうか。

*1:俺はプルーストなんて一ページも読んだことはないけれど、親父が『失われた時を求めて』に何が書いてあるか言ったことを思い出す。それは、スノッブに対する批判はスノッブに他ならず、それを指摘する者は……と永遠に続くものだという話だ。それが的を射ているのか、親父がしらふだったのか分からないけれど、言ってる内容は正しいだろう