羽田盃へ行った

 大井競馬場へ向かう道すがら、僕は懐かしい不安とともにあった。遠足の集合場所、集合時間。今日の社会見学は私服だったか制服だったか。学校にまつわる些細でいて、酷く胸を締めつけられるような不安。その不安とともにあった。なぜか。僕と同じ目的を持っているであろう人が見あたらなかったのだ。立会川駅についても、階段の下の新聞売りすら見あたらない。「今日は羽田盃どころか、競馬開催すらないんじゃないのか? 俺はとんだオマヌケ野郎かもしれない」などと、にわかに憂鬱になってきたのだ。
 が、道中に交通整理の人を見かけてちょっと安心。競馬場に着くと、無事開催していることがわかった。しかし、いつ以来の大井だろう。噂には聞いていたけれど、レーシングプログラムがペラ一枚の出馬表になっている。そして、パドック横の券売機ゾーンが完全に閉鎖されていた。いつもここらへんで買っていたのにな。
 五レースくらいから買い始めた。が、当たる当たらないの問題以前に、何を買っていいのかさっぱりわからない。たまにこういう感覚に陥る。もう、パドックで馬を見ても、競馬新聞を眺めても、一つ目の積み木すら置けないのだ。何の発想もひらめきもない。当たり外れ以前の問題。競馬から疎外されたような感覚。あまりに久しぶりの競馬場だからか、急遽思い立ってきたからなのか。そんな感じで、それで適当に買った馬券が当たれば(それでも買うのだからよくない)いいものの、そんなこともなく日が暮れて寒さ身にしみるばかり。
 競馬場で競馬への欲求が湧かないのは不幸だ。しかし、なぜか食欲は湧いた。モスバーガーモスバーガーなどを頼む。僕はモスバーガーがどうも苦手で、競馬場くらいでしか食う機会がないのだ。そして、さらにモツ煮なども食べる。そこでふと、タバコが吸いたくなった。そういえば、自分の部屋以外でタバコを吸った記憶がはるかかなたにしかない。いつ以来かわからないほど前の競馬場でも、僕はもうタバコを吸っていなかったと思う。家でしかタバコを吸わなくなって久しいのだ。
 僕は自販機でタバコを買った。好みの銘柄もなにもないという気だったので、ほとんど吸ったことのないマイルドセブンを買った。ルノーが好調なせいかもしれない。そういえば、最初に好んだタバコはリジェの影響でジタンだった。タバコの広告が青少年に与える影響―大いにある。
 人もまばらなコーナーあたりで、一本火を付けた(ライターはカバンの奥に一つあったのだ)。煙が風に舞って消えていく。競馬場のにおいと混然となって脳を刺戟する香り。そうか、これか。たてつづけに二本吸った。二本吸ったところで、ノドが痛くなった。ライトという割には重いじゃないか。僕は昔17mg/1.4mgのジョーカーを好んで吸っていたというのに。なにかもう、途端にタバコにも興味が無くなってしまった。寒さがきつくなってきて、ビールを飲んでいる人などを見るとぞっとしてしまう。そこで、ポケットからウィスキーを出してごくり。これがじーんと来て暖まることこの上ない。今度はもっと持ってこよう。
 そんな風にほろ酔いで、いつしかメーンを迎えていた。馬券の当たりらしい当たりは一本、加藤和博(カトウカズヒロが多すぎてわけがわからないよ)の単勝が十倍ついたのくらい。あまり賭けていないとはいえ、マイナスはマイナス。さりとてメーンで取り返すインスピレーションも湧いてこない。ただ、目的は目的、シーチャリオットを見るのだ。パドックへ。
 パドックは九レース終了後に歩いていっても、楽々と見ることができた。前の方で若い兄さんらが「外人は反則だろ〜」などと言っている。シーチャリオットの事実上の馬主である殿下のことだろうか。しかし、なんか遠回りな。……と思っていたら、シーチャリオットを引いている二人のうちの一人が、背の高い外国人なのだ。背広姿でビシッと決めて、何か無表情な職人のような姿。僕も「反則だぁ」と思った。妙に決まりすぎている。そもそも、川島正行厩舎の馬を引く四人だけがスーツ姿。ここらあたりの流儀は、かの厩舎の強さと表裏一体というか、そのものなのだろう。だから、「気取りやがって」という気にはあまりならない。
 さて、シーチャリオット。たまに前の馬につられてチャカつくが、気にするほどじゃない。五百キロ級のわりには、ゴツゴツした感じがあまりしない。無駄がないということか。一方、同厩舎のマズルブラストはいかにも巨漢といった雰囲気。オペラハットのような。これもシーチャリオットがいなければ、世代トップクラスといっていいだろう。内の方ではメイプルエイトが堂々とした雰囲気。トウケイファイヤーはいまいち印象に残っていない。そして、気になったのがブラックジール、未勝利馬だ。しかし、黒光りする馬体が大股に外目を周回していくその姿。騙されるな、社台ブランドだから尚更ピカピカ見えるだけだぞ、と思う。思いながらも、三連単も人気サイドじゃつまらないのを考慮し、いっそのことシーチャリオットとここらで穴を狙うか、と安易に流された。ついでにシーチャリを外した人気どころの連複を抑えたのは内緒だ。
 さあ、いよいよレース。このファンファーレも初めて聞いた。スタート。大外マズルブラストが出遅れる。シーチャリオットより前に行くと思っていたのだが。先行争いも特に激しくならず、シーチャリオットは中団外に構える。淡々と進む。三四角でシーチャリオットが漸進。場内にざわめき。スーッと上がっていくさまに、ディープインパクトを思い出す。四角回って先頭に立つ内田博幸シーチャリオット。隣で見ていたサラリーマンが「早いよ」と一人ごちる。なるほど、突き放せない。内から一頭馬体を併せる馬が居る。張田京メイプルエイト。ほとんどくっつくかのような叩き合い。まさか、と思ったのもつかの間、涼しい顔でシーチャリオットはメイプルを突き放す。まるで予定されていた併せ馬のようだった。後ろからマズルブラストが突っ込んできたが時既に遅し。タイムは昨年のトキノコジロー(中央移籍後狙い続けているが、最近姿を見ないな)と変わらないが、スローペースのせいだろう。逆にスローで突き放したのが凄い。いや、まあなんというか恐れ入りました。
 満足した僕は、レース後のインタビューも聞かずに家路についた。東京ダービーは見るまでもないだろう。しかし、ジャパンダートダービー。出てこいプライドキムドンクール。こいつはまだまだ進化するぜ。実に楽しみになってきたもんだ。