いちじくの木を呪う

マタイによる福音書21-18,19

朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。
道ばたにいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。

 「いちじくの木を呪う」の項は、福音書のエピソードの中でも異彩を放っているという印象を受けた。ここは「実をつけろ」と念じて実をつけた方が通りの良いエピソードである。しかし、空腹のイエスは呪い、枯らせる。
 この件について、『聖書植物図鑑』(ASIN:4764240114)をパラパラとめくっていると、いくらかの見解を知ることができた。やはりここは難解とされている箇所らしく、一般的な解釈はユダヤ人を実を結ばぬいちじくにたとえたもの、ということらしい。しかし、この著者は、イチジクという植物について考えた上で結論を出すべきだと説く。
 著者の大槻虎男氏の解釈をかいつまんで言えば、長年農村であるナザレ村で暮らしていたイエスは果樹に対する造詣も深く(ルカ13:6-9)、その上で結実しないイチジクと判断して切り倒させた。しかし、都会育ちの弟子たちにはそのことがよく理解されず、呪い倒したと記されたのだという。
 果たして、この解釈が筋の通ったものなのかどうかはよくわからない。何せ私は「聖書くらい読んでおくか」という気持ちで直接新約聖書を読むばかりで、教会とも説法とも注釈書とも無縁だ。しかし、この著者がイエスが残酷な行いをした、ということを回避させようと解釈しているのはわかる。長い歴史の価値観の変化の中、このような再解釈は数え切れぬほどなされてきたのだし、今後もなされていくことだろう。ジェンダーフリーバリアフリー、平和と人権とグローバリゼーション搭載型イエス
 さて、私がこれらを読んだ上で、どう「いちじくの木を呪う」を受け取ったのか。やはり、第一感と変わらない。「腹が減っていてむしゃくしゃしてやった。どの木でもよかった。まさか後世にこんな解釈をされるとは思っていなかった。反省している」といったところではないのか。私は福音書でイエスが突飛な行動をするのが面白くて仕方なかったので、新約聖書読みも使徒言行録に入ってかなり滞っていることを告白しておく。
 なお、この項についても乞う、信仰篤き者の寛恕。