空からマナが降ってきた

http://www.is.seisen-u.ac.jp/~zkohta/bible/old_t/main.html

イスラエルの家では、それをマナと名付けた。それは、コエンドロの種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味がした。(出エジプト記16-31)

イスラエルの人々は、人の住んでいる土地に着くまで四十年にわたってこのマナを食べた。すなわち、カナン地方の境に到着するまで彼らはこのマナを食べた。(出エジプト記16-35)

民は歩き回って拾い集め、臼で粉にひくか、鉢ですりつぶし、鍋で煮て、菓子にした。それは、こくのあるクリームのような味であった。(民数記11-08)

 エジプトからモーセイスラエル人を引き連れて荒野の砂漠。「エジプトに居たときは肉も魚も食えたのに!」と不満タラタラの群衆。そこへ主が降らせて与えたのが「マナ」と呼ばれる食べ物である。要するに、なんだかわからんが、空の上の誰かさんの世界の、不思議な食い物ってことだ。
 ……と納得してしまうのは、私が異教徒だからかなぁ。『聖書植物図鑑』(ASIN:4764240114)をパラパラめくっていたら、「マナとギョリュウ」という項があったのだ。そこでは「マナ」の正体についての考察があったのだ。まず紹介されているのは、マナが地衣類ではないかという考え。頭部ヨーロッパに見られるある地衣類(Lecanora esculenta)は、夜露を吸って拡がるが、日中に乾いて小さくなり風に巻き上げられて降ってくるという。これがパンの材料にもなるというのだ。しかし、この図鑑の著者は「日中に溶ける」「虫がついた」「味」などの記述が聖書にあることから、その意見を一蹴する。他にも藍藻説や鳥糞説などもあるらしい。
 そして、著者が現地の学者が言うのだから「信ずるより仕方ない」と紹介する説。それは、ギョリュウという樹木にマナムシという虫が付き、樹より吸い上げた蜜が貯まると、蜜塊となって落ちるというもの。今でもアラビア各地で「マナ」の名で売られているという。
 ……いや、驚いた。マナが何かということ自体ではなく、それを探求する態度に、である。あくまで聖書に記されたことを客観的根拠として用い、なおかつ科学的にその正体を探るのだ。「神様の不思議なもの」では済まさない。しかも、未開の地に部外者がやってきて「この部族の伝説の正体は」と探るわけではなく、内輪でやっているのだ。しかししかし、考えてみればこの地球上の科学技術をもの凄く発展させてきた西洋世界のバックボーンには、キリスト教があったのだ。そこらあたりが矛盾してるようで矛盾しない。異教徒にはよくわからない。
 とはいえ、この本の著者とて「聖書の条件に一致させるのは難しい」として、次のように述べている。

 マナの語原はman huで「これは何だ」という意味である。マナの本態は現在でも依然として、“これは何だ”の域を出ていない。

 やはりまあ、“これは何だ”なのだった。いや、「現在でも依然として」あたりに探求の意志が見て取れなくもないような気がしないわけでもないような気がせざるをえないような気もするが。