『空海の夢』松岡正剛

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 先日石川町のアポロブックスという古本屋に寄ったときのことだ。このところ聖書物語など読んだので、いっちょ聖書に関わる本の一冊でもと探すと、いつのまにか書棚の構成が変わっていて、それらしき一角が誕生している。これ幸いと思うも、値段の方と折り合いが付かない。「空手還郷」ではつまらんと、他の棚を見ていて見つけたのがこの本じつに六百円。ヨーロッパから日本へひとっ飛び。ついでに言えば、これと一緒に買ったのは宇能鴻一郎の『タレントあそび』であった。
 松岡正剛。たしか実家に『情報の歴史』(ASIN:4871884430)があった。なぜか二冊も。そして、ネットで検索をしているとよく引っ掛かる「千夜千冊」(http://www.isis.ne.jp/top.html)の人だ。そのくらいしか知らない。ただ、ぱらりとめくると、明恵上人が見た空海の夢についてバタイユの『眼球譚』を引き合いに出していて、ちょっと面白そうだと思ったのだ。空海空海弘法大師だということを、この本を読んでいて思い出したというくらいだ。何宗をどうした人かも覚えていない。しかし、そんな人でも『空海の夢』を読めば一安心、一家に一冊といった具合であった。
 俺はこの本を読むにあたって、たぶん生まれて初めてのことをした。本を読みながらペンで気になった箇所に線を引いた。俺は本を無傷でいさせるのが好きなのだけれど、パソコンもネットもない自分のアパートで読むには、これしかなかった。反省している。しかし、せっかく読んだので、いくらかメモくらいはしておこう。読んだのは一週間くらい前の数日。

1-空海の夢
 明恵上人、そして著者自身が見た「空海についての夢」から始まる。

明恵上人が袖に入れた空海の濡れた両眼を私もわしづかみにして、しばらく狩猟の旅に出たい。

2-東洋は動いている

もともと中国への文化文物の流入は、シルクロード型と南海型と北方ステップロードによる草原型の三種のコースによっていた。これをシルクロード型の一本にみてしまうのは、やがてそれが朝鮮半島を経て日本に入ってきたことに照らし合わせてみても、たいへんに日本文化とアジア文化の橋梁を狭いものにしかねない。

 密教のルーツについて語られる冒頭。なるほど、シルクロードを通って東の果ての日本に、という一本線でしかイメージしたことがなかった。ためになった。

 思索はつねに風土の枠組みというものがつきまとう。それは言語思想にも及ぶ。

 ここらあたりは藤原新也がよく述べていることかと思う。気軽にグローバリゼーション言えない。

 ……鈴木秀夫教授はこれを「判断中止の思想」とみなした。砂漠では判断中止はそのまま死を意味するが、森林ではその死を見つめることすら発達するということだ。梵我一如の思想の萌芽であった。

 ピテカントロプス誕生から、ホモ・サピエンスやなんやかやを経て、人類が森林生活する地域にも至った。そこで生まれたのが「判断中止の思想」。この森のイメージについては藤原新也の『ノア』(id:goldhead:20050704#p2)の最終話「ノア」を思い出さずにはいられない。やがてこの「森林的判断中止性」と「砂漠的唯一神性」が中和し、仏教はその中間風土を求めていったのではないか、と著者は書く。

 空海には、生命の普遍性や言語の普遍性に対する信じられないほど今日的な考察がある。それは東洋の風土とともに空海がみつめつづけた世界の光景だった。

 「それ」は生命そのものの動向、言語そのものの動向を指す。風土ばかりが文化様式・思考形式を決定するわけではない。「東洋が動いている」とはそれらを含めて「動いている」。壮大なスケールや、ええねえ。

3-生命の海

空海ほどelan vitalを日本において主唱した思想家はいなかった。

 著者は、ある仏教本シリーズの空海編につけられたタイトル「生命の海」という言葉に、空海の全体像の集約まで見るという。その生命の海は生の哲学謳歌であるとともに、死の哲学でもある。ひとり人間のみが想定されるわけでもなく、「生物全体の生命の海」。ところで、elan vitalとは何ぞやと検索すると、このページ(http://ww1.m78.com/topix-2/elan.html)が出てきて、「フランス軍事学の根本」などというのだから驚きだ。元はベルグソンの言葉らしいが、フランス人は哲学しながら戦争するからいまいち弱いんじゃないのか。「エランビタール」と検索して出てくるプロポリス飲んで頑張れフランス人。

 生命が意識を獲得したということは生命の歴史の中でも最大に特筆すべきである。本来、負のエントロピーを食べるしかない生命がふと“自分”をふりかえることになってしまったからだ。生命が意識をもつことによって生じたもう一つの異例は、神や超越者を想定したことだった。

 生命と意識について、ある現代生物学者は意識の勝利を説き、別の学者は精神の敗北を主張する。

 仏教とはせんじつめればいかに意識をコントロールできるかという点にかかっている。

 「梵」(ブラフマン、マクロコスモス)と「我」(アートマン、ミクロコスモス)の統一を果たすものが意識。これがヒンドゥイズムの梵我一如。つづいて仏教は「我」が問題だと考えて、「我」そのものをはずすことにする。そのための、超俗、出家。しかし、それはあまりに反生活的にできあがっていた。再び生命の海への投企……投企?→(Entwurf、企投、project、ハイデガー)。そして↓

 仏教史とは、つねに生命と意識の対立をどのように解消するかという一点をめぐる世界最大の思想史劇である。

4-意識の進化
 空海は「意識の進化」と「言語の進化」の二つの大きな視座があるという。この章では、空海をいったん離れてそれぞれの展望に入る。

  • 直立二足歩行
    • 両手が自由になる
      • 指の分節性の自覚→順番に指を折る→数観念/学習観念の発生
    • 眼高が高くなる
      • 両眼視→距離観念の発生/「ここ」「かしこ」の峻別
    • 生殖器が内側に入る
    • 出産の困難
      • 長い胎児状態/赤ん坊の未熟さ(人類は早く立ち上がりすぎた)
      • 大脳の肥大化
    • 声帯筋の変化
      • 声の分節化→言語→大脳とのコンビによる悪無限的拡張

 二足歩行が全ての厄災の原因で、意識の進化に長所はなかったのか。しかし、退化の思想は評価されない→四つん這いになる哲人ナラダッダ(手塚治虫の『ブッダ』で見かけた気がする)など。そして、直立二足歩行断続のうまいやりかたが↓だ。

まったく「坐る」とは東洋のおそろしい発見だったと思う。

 「坐る」ことが発見とか言われると、唸る思いがする。これは2章で述べられていた森の思想。ヨガ。印を結ぶ→両手を結びなおす。半眼→両眼視をやめる。仏像に大進化をくい止める姿を見るという。そうなのか。これが「意識と言語の相剋をのりこえる方法」の可能性だ。
 しかし、これでめでたしとはならない。ブッダの言葉の解釈をめぐる分派闘争。しかしその原因は、

「言語が記憶されるようになった」

 ということによる。解釈そのものの違い問題でなく、それ以前の情報の記録方法に問題がある。→言語記憶とその再生にはつねに「場面」設定が必要→その「場面」設定の差が解釈差の原因。
……今日はここまで。カフェインのせいか、再読してしまってるのはいかがなものか。
id:goldhead:20050812#p3へつづく