『空海の夢』松岡正剛 つづき2

ASIN:4393136136
ASIN:4393136128

9-仮名乞児の叛逆

 空海の声は深かったとおもう。ただ大きいのではなく、深く遠くよく響いたであろう。高くはなかったはずである。

 という印象的な文章から始まるこの章。章タイトル、見出しは「反逆」で、なぜか左上の柱は「叛逆」。かっこいいので後者を取った。この章では若き日の空海、佐伯真魚の足どりを辿る。

 ここで一つの激突があれば、佐伯真魚は沙門空海とはならなかった。いまもなお高校や大学で日々くりかえされている自我の真空放電でおわったことだろう。

 「自我の真空放電」という表現がいい。ネット上でも日々くりかえされているかもしれない。で、「ここで」というのは、優秀な学徒であった佐伯青年が、同年代の青年たちに「ニヒリズムの香気」と「ペシミズムの邪気」をもって、その衒学をからかわれたであろうこと。そして青年は、「いってみればヒッピーにうそぶかれ、これに感応してしまったのだった」。
 それで時代の変化やらなんやらあるうちに、「虚空蔵求聞持法」なる記憶術の秘法をゲットして、大学をドロッパウト。山に入り佐伯真魚から空海になっていった。

10-方法序説

三教指帰』の四六駢儷文のことごとくが古典の用例にもとづいて、空海の恣意的な造語はほとんどないといってよいほどだった。

 空海が他の追随を許さないほどの「集めて一つに大成する綜合力」(福永光司)に長けていたことは、空海研究者の誰しもが認めている。私の言葉でいえば、これはエディトリアル・オーケストレーションの妙、すなわち、「編集構成力」というものだ。

 章タイトルの「方法序説」はデカルト。著者の『遊学』の方でも触れられているが「事物の真理を探究するには方法が必要である」。そして、遂に出てきたエディトリアルの一語。ここらあたりは著者のテリトリーそのものか。で、空海はエディトリアルの眼光で先駆者の業績を射抜く。

エディトリアルとは結集ではない。どちらかといえば結縁というものである。

 この「結縁」は「けちえん」でなく普通の「けつえん」だろか。これはまた先に出てきた密教の特色entrainmentに応じ、遊撃性を有する自在な選択力。

11-内は外
 密教はその汎神秘主義を「半ば隠して半ば表立つ」方針でやってきた。その内と外が密教の肝であり、また空海はその内と外の感覚に優れていた。そこに大きな影響を与えたのは恵果であった。

12-長安の人
 二十年の予定で入唐した空海。結果的にわずか二年で帰国するのだが、空白期もあってその間なにをしていたのか。著者が参考に挙げている司馬遼太郎空海の風景』、これはいつか値段の折り合いがついたら買い求めたいところ。何やらここらあたり面白そうだ。

当時の長安を襲っていたケン教(ゾロアスター教)、マニ教景教ネストリウス派)、回教(イスラム教)などの西来の異教にも充分な観察の眼を行きとどかせたことが予想される。

 当時の唐の様相の一部。思わず世界史の授業を思い出してしまう(ケン教のケンの字は漢字で書かされた覚えがあるが、第二水準にも入っていないのか)。なんかこう、一歩間違ってネストリウス派が日本に入って大流行でもしたらどうなったんだろう、などと妄想してしまう。プレスター・ジョンを信じた連中が喜んだかも知れない。それとも、異端だから喜ばないか。けど、この伝説の発祥は他ならぬネストリウス派という話もあるのか(http://www.tabiken.com/history/doc/Q/Q125C200.HTM)。

こうしてのちに真言宗をおこす空海によって、ここに大日如来―金剛薩た(つちへんに垂)―龍猛―龍智―金剛智―不空―恵果―空海」の真言八祖の伝持が確立したことになった。

 「こうして」の部分はなかなかに興味深く面白かった。やはり小説で読んでみたい。そして、まったく知識のない俺ゆえに、空海が単に留学して学んだという以上のものすごい成果を得たということに驚いた。そうか、インドから来た密教唯一の正統後継者だったのか、いやはや、と。

13-初転法輪
 帰国してからの空海の動向と世間の動向。「薬子の乱」ってのが出てくるが、これは澁澤龍彦の『高丘親王航海記』ASIN:4167140020だな。そうか、この時代なんやなぁ。また読み返してみよう。何度でも読み返そう。

14-アルス・マグナ
 いきなり「アルス・マグナ」と言われても困る。「大いなる秘術」、錬金術などに用いられる言葉。

 密教は「直感」と「方法」の糾合からはじまる。

 だそうで、この章ではその「直感」の方を理解するため、情報系について述べられる。第一次情報系はヒトが生物史に内属して継承してきた情報系、感覚器官から入ってくるの第二次情報系で、

情報系とはいっても、それは子供のおもちゃ箱のように多種多様にバラバラに入力されたままであるにすぎない。これがヒトの脳髄の不幸であって、生物一般の不幸でないことは、生物一般にはかなり厳密な情報入力にかんする制御性や選択性がある。

 この第二次情報系はそのままでは役に立たない。これをすこし正確にストックする方法は、ゆさぶること。

「構造の維持にはエネルギーの散逸が必要である」と主張したイリヤ・プリゴジヌが〜

 「ゆらぎ」というやつだ。プリゴジヌの名に見覚えがあるような気がする。そうだ、こないだ読んだ『スキズマトリックス』(id:goldhead:20050723#p1)だ。ちょっと引用すると、

……統計物理学の新展開により、プリゴジンの複雑性の四段階の客観的存在が立証され、第五段階の存在も仮定されるようになった。宇宙の年齢はプラスマイナス四年という精度にまで算出され……

 そうか、イリヤ・プリゴジンは人名であったか、という程度しかわからない。まあいいや。ともかく、情報→揺さぶり→第三次的なノン・ローカルな序列に位置づけ→第三次情報系の選択と圧縮→自己組織化ということらしい。……ここらあたりは肝だ、肝ゆえにむずかしい。「直観」は「場面集(インターフェイス)」、「方法」は直観世界を合理化する「回路群(サーキット)」。右脳に直観、左脳に方法、唇には火の酒……、いや、火の酒は出てこないし、背中の人生も出てこない。
 この章ではさらに「空海アルス・マグナ」が著者のエディトリアル・ワークによって開示される。これも本書の肝というか、リファレンスポイントというべきか。正味なところ、目を見張りつつ、その一方で華麗にスルー。

「とびぬけているとは深く根ざしていることである」(ルネ・デュボス)

 ともかく、空海の思想はこういうということだということだ。もちろん、デュボスさんが誰かなど知るよしもない。