『空海の夢』松岡正剛 つづき3

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id:goldhead:20050813#p3のつづき

15-対応と決断

 泰範を主人公にした小説を誰かが書いてもよさそうだ。

 泰範(たいはん)は最澄最愛の弟子。最澄は当時高い地位にあったが、空海の持ち帰った成果の大きさに、頭を垂れて弟子入りのような形で教えを乞う。最澄空海はじめは仲良くしていたが、『理趣経』を貸してくれという申込みを拒絶し、断交。そこで泰範は、長年仕えてきた最澄から空海の元へ走るのである。
 うむ。空海最澄と泰範を主人公にしたやおい小説を誰かが書いてもよさそうだ。というか、すでにあっても全然驚かないほど深遠なのがやおい世界なのだが。

16-カリグラファー空海

 密教では文字にふたつの表情を読む。字相と字義を言う。字相は表面的なイメージを、字義はその奥に潜んでいるイメージをさしている。空海はそのどちらにも目をくばり、どちらもほうっておかなかった。よく、「字面にとらわれる」と言うが、空海はその字面にこそ本意がはためいているとみえた。そういう“文字の人”だった。

 なにせ“弘法も筆の誤り”の弘法大師。ここで書家ではなくあえてカリグラファーと題したのは、

私が空海をカリグラファーと呼ぶ理由は、彼が非常にグローバルであるためなんです。インド・中国・朝鮮半島のすべての文字、書法、さらには音声まで、森羅万象の形すべてを引き取って書く書家であったと思うんです。
http://www.mikkyo21f.gr.jp/forum_20010510-d1.html)

 とのことらしい。俺がカリグラファーと聞いて思い浮かべるのは、羽ペンで着色聖書に飾り文字を書き込む姿(どこかで実演を見たのだっけ?)だな。あと、浅葉克己id:goldhead:20040731#p1)とか?

 「文」とはもともと文身(ぶんしん)のこと、すなわち入墨である。

 「文」の原型になっているパターンは「×(バツ)」である。

 体毛を失った裸の猿は、「まず文身、そして服飾を身にもどろいた」そうだ。……「もどろいた」ってなんだ? 広辞苑によると「もどろく」は「斑く」で、「まだらにする」「体にいれずみをする」という意味だそうだ。最初読んだときは気づかなかったな。それはそうと、ちょっと脇道の文字の話。「×」のルーツは古代メソポタミアやイラン地方で、西に行って聖十字+、東に行ってスワスチカ卍になったのだとか。で、「文」の字も「×」がもと。それが日本に入って「アヤ」となる。アヤがついたり、勝負のアヤだったりするあややね。それすなわち「あやし」と。

 「書は散なり」とは、空海の書のみならず、その思想の特徴を知るうえでもすこぶる重要な指摘である。書を散らして書きなさいというのではない。書する心の方を景色にあてがいなさいと言うのだ。景色とはまた気色であるが、ようするに対象に陥入してidentifyするということである。

 ふつうアイデンティティidentityは自己同一性というふうに解釈されて、主体性の一貫を申しひらく意味につかわれる。簡単にいえば「自分らしさ」である。けれどもこれは近代自我がつくりあげた勝手な弁論だった。本来、個人主義的な主体性などというものはない。ましてやそれが一貫するなどということがあってはたまったものじゃない。そこではひたすら「私」という得体のしれぬ者の筋を通すために、他は犧牲になるばかりである。

 書家蔡よう(くくくの下に邑)の「書は散なり」という言葉から、アイデンティティへ。続いて「相手に入ってしまうところがむしろidentifyであるとみた」、とある。アイデンティティとは何を意味するのか、というと色々の説明を読んでもどうにも参ってしまうところがあって、上の下の方の説明についても少し整理がつかない。ただ、書の方のあり方に関してはなんとなくわかるような。「文字を見て人をわからせるのではなく、文字を見て万物をわからせる」、エゴイズムの脱却。

17-イメージの図像学
 この章ではマンダラの話が展開される。

 東洋におけるイコン・イメージの歴史の一端はインダス文明にはじまった。

風と風土の影響は、イコン・イメージにもよく成立していた

 なるほど、こないだ鎌倉国宝館で見た仏像やらにはインド人そのものみたいなのが混じっていたっけ。小町通にインド料理屋があり、そこでインド料理を食ったのは偶然ではなかった、としておこう(id:goldhead:20050807)。

なぜにマンダラが人々を惹きつけてやまないかということは、ユンクの「マンダラとは原心理の代名詞ではなかったかと思わせるほどだ」の言葉によく象徴されていよう。

 マンダラといえばユングの名が出てくる。ん、ユンク? これが正しい発音なのだろうか。検索すると、ドイツ語の末尾の「g」は「ク」になるが、「ng」は「ング」になるとのこと(http://miura.k-server.org/newpage153.htmhttp://www007.upp.so-net.ne.jp/rindou/fusei8.htmlなど)。となると、Jungは「ユング」でいいということになる。しかし、そんなミスがあるのだろうか。ここで、ユングの母国がスイスであることに注目されたい。日本ユング会の雄・河合隼雄氏もスイスのユング研究所に渡り、三年の修行ののちユング派分析家の秘法灌頂を受けたのである。そう、スイス。スイスは知っての通り多言語国家であり、その中でもっともよく使われるのはドイツ語だ。しかし、そのドイツ語は、ドイツのドイツ語からは随分変化しており(http://www.geocities.jp/deutschebaeckerin/LiveCH/CHDeutschZahl.html)、「スイスドイツ語」や「スイス語」とまで言われるくらいだ。したがって、ユングの現地発音がユンクである可能性もあるのである。……いや、ほんとドイツもスイスも知らんけど。

初期に使われていたマンダラという言葉には、何か本質的なものを集めこむといったイメージがあったことがみえてくる。単なる本質の集合ということでなく、いわば本質への観相の動機に充ちた参集的示現のことを言っていたようだ。アド・ホックな集合ではなく、アロステリックな集合形態である。

 空海の「須弥山=宇宙身=マンダラ」の等式に至る、マンダラの歴史。アド・ホック? アドホックってなんか、無線LANの設定の時に出てくる言葉(http://e-words.jp/w/E382A2E38389E3839BE38383E382AFE383A2E383BCE38389.html)だったな。つまり、こういう感じ(http://learning.xrea.jp/%A5%A2%A5%C9%A5%DB%A5%C3%A5%AF.html)だろか。で、対義語としてインフラストラクチャではなく、アロステリックなる言葉が出てくる。うーん、単に集まるだけじゃない、という感じだろか(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E5%8A%B9%E6%9E%9C)。こう、有機的な反応というか、ようわからんが。

日本の神々が信仰のなかで組みあわされることよりもむしろ広範な現象にいちいち対応する八百万型の傾向を取ったのにくらべ、古代インドの諸神や諸仏はおおかた聖衆集会の機を目指していた。

 これは何かわかるような気がする。何せ神無月にしか集まらないし、集まってる神在月のイメージも湧かないもの。で、インドの神様が集まりたがるのは、インド独特の高次な「情報結集」とのこと。

 しかし、こうしたマンダラのイメージははじめから図示されることを目的としていたのではなかった。むしろ「場面の想定」こそがマンダラであったのではなかったとおもわれる。

 これは第4章「意識の進化」における言語記憶再生について、第14章「アルス・マグナ」の「直観」が関わってくるところ。

ヨーガに場の於格のイメージがつねに想定されているように、おそらくマンダラには場の参与のイメージが想定されてきたのだろう。

 それは自身の充満でも、山川草木でも今見られるようなマンダラ図でもよかった。しかし、マジで強い想定力が要求された、と。で、「於格」ってなんだろう? 検索したら出てきた。
http://www.tibs.jp/kougi/kawanami/kawanami01.html

それからまた玄奘訳では 「行深般若波羅蜜多時」 とあって、 「般若波羅蜜多」 が目的格になっているでしょう。 観自在菩薩が般若波羅蜜を行じたもうというところの漢訳では、 目的格になっています。 ところがサンスクリット経典ではそうなっていないんです。 甚深なる般若波羅蜜の中で、 般若波羅蜜に包まれてその中で行ずる、 というのです。 サンスクリットには格が八つあり、 場所の格 (於格) というのがあります。 それを玄奘三蔵がこの於格のところを目的格に解釈したために、 般若波羅蜜と空の実践とが分かれてしまった。 これは大問題です。

 場所の格、か。そしてこれが仏教学というものか。検索したら他にひっかかったページも。こちらもURLを削ったり辿ったりしていたら時間を食ってしまった。いずれ読もう(http://joshya.hp.infoseek.co.jp/ori/najas1.html)。

積極的にその場を自身にひきよせて想定し、いつもその場がイメージの底辺にぽかりと浮かぶようにする。そうしておけば、その場に参与参集するイコン・イメージもそこに定着できるということになる。

古代インドにおいては、ヒマラヤを母体とした須弥山こそがそのヤマだった。そこでは光速に近い諸神諸仏の怒濤の参集が高速度撮影のように見えたことだろう。

 マンダラの発生は、ヤマに神々が降り立ち仮泊するイメージを想定する、ことにあった。俺はこの本を読みながら、どこかでイーフー・トゥアンの『トポフィリア』(id:goldhead:20050212)の概念がどこかにあった。何せ俺は小説と小説に関する以外の本を、半年に一度くらいしか読まない。……というのもあるが、本書にも「トポグラフィック」という単語も出てきたしね。それにたとえば、マンダラの説明の中で出てきた次のような一文。

中国的思考に方形幻想があり、筺型観念が猛威をふるっていた

 これなども『トポフィリア』に例として出ていたであろうか。ちなみに、『キリンヤガ』(id:goldhead:20050810#p1)に出てくるキユク族によれば「悪魔は角張った隅にひそむのだから、家の形はかならず円でなければならないのだ」そうだ。ジャンボ、コリバ。それじゃ中国は悪魔の国だな。

マンダラの対称性に普遍的な強化を与えつづけたのは、生命体のほとんどが対称的あったことにもとづいていたのではないだろうか。

一方、マンダラの対称性が厳密ではないことに注意をいたさなければならない。

 マンダラの回転、増加、そして対称性の獲得。マンダラは全体においては大同の対称性を求め、部分では小異の反対称を演じている。「ゆらぎ」、そして二次情報系のゆさぶり?

全体と部分がほどよく拮抗しあっていうるということ、細部の変化は全体を犯すことなくゆらぎつづけていること、また全体のまるで結晶構造のように重層するフレームはかならずしも細部の表情を奪っていないこと……

 これは筆者があるマンダラを見ていて感得したこと。それは「ホロニックな充足感」だったという。「ホロニック」はこの後も出てくる本書のキーワードと思われる。ホロニックとは……http://www.holonic.jp/ なんとドメインがあった。まあこのように、ビジネスや街づくりなどにも用いられる、ホロン、ホロニックは今でもちょっと人気の言葉みたいだ。俺は全然知らなかった。

18-和光同塵
 和光同塵広辞苑で調べたら、次のような意味であった。

1-[老子第四章「和其光同其塵」] 知恵ある人がその知の光をやわらげ隠し、俗世間の人々の中に同化して交わること。
2-仏・菩薩が本来の知徳の光を隠し、煩悩の塵に同じて衆生を救済すること。特に、仏が日本の神として現れる本地垂迹のことをいう。和光垂迹。金刀本保元「それ―の方便は抜苦与楽の為なれば」

 この章では高野山を占め、開くに至った空海の動きについて。高野山あたりの土着の神に威福をもたらし、稲荷信仰との合流。密教が日本全国の神仏習合の中心となる。

19-即身成仏義体

私は「即身成仏」とは「生きながらに仏になること」、すなわちミイラになることだとおもいこんでいた!

 もちろん著者の高度な間違いであり、なおかつそこから誤解の花を咲かせ、あらたなリンクを繋げるのだからものすごい。俺は即身成仏というといしいひさいちの『B型平次捕物帖』(ASIN:4575721697……大傑作)に出てきた山形平次を思い出す。山形平次は銭のかわりに湯殿山即身仏を投げるのであった。
 その後、禅なども顔を出しつつ、著者のエディトリアルワークによる『即身成仏義』のまとめに。これもまた華麗にスルー。

 『即身成仏義』においてもっとも注目すべき個所「重重帝網を即身と名づく」という一行であろう。互いの宝珠が互いに鏡映しあっているホロニックなネットワークを、そのままそれ自体として「即身」ととらえた思想的直観は、本書の最後に述べるように、世界哲学史上においてもとくに傑出するものだ。そこには現代科学の最先端のフィジカル・イメージさえ先取りされている。

 俺は「天網恢々疎にして漏らさず」の「天網」という言葉が好きで、その倫理性をわきに置いて転を覆う蜘蛛の巣のような網を思い浮かべ、またそれをインターネットの情報網と重ね合わせたりしていた。しかし、ここで出てきたのは「帝網」。本書の肝の一つか。そして、ここらあたり、士郎正宗などが好んでグラフィックにしたがるものに思える。

20-六塵はよく溺るる海

 われわれがいつかは考えなければならないもっとも恐るべき問題のひとつは、「生命は生命を食べて生きている」ということにある。

 前章から一気に転じて、ズバッとこの文章から入るあたりにしびれる。この章では生命/イノチとその歴史について。

 神話や宗教は生命のさまざまの形態や性質をはやくからとりこんでいたのであって、それがどこかで“人間のための寓話”だけになってしまっているとするのなら、神話や宗教はおのれを反省しなければならないということになる。

 古代のあらゆる世界に見られたであろう「イノリ」には「生命の冒険と矛盾」にささげられたものもあったであろう。そして、その生命は人に限らないものであった。手厳しい指摘。

一番よく知られている異常は生命には「死」がつきまとっていることだろう。

宗教はやむなく「生命の海」からほんの一握りの生命のみを抜き出した。

 しかし、問題は「イノリ」の原基である「イノチ」の異常、それが「死」。しかし、古代人は全ての生命に死の異常を認められず(ヒンズーの階級などヒトですら全て含まれるわけではない)、古代宗教は「生命の限定」の上に成り立った。そこには軋轢があり、やがて「イノリ」と「イノチ」は乖離し、「イノチ」の方は手が付けられなくなっていく。

『秘蔵宝鑰』の序に肺腑をえぐるような数行がある。こういうものだ。

三界の狂人は狂せることを知らず
四生の盲者は盲なることを識らず
生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終りに冥し

 遂に出てきた。俺はこの本を買う決定打になったのは、目次のあとの扉、黒地に白地でこれの後半二行が鎮座していたからだ。これは恐ろしく、そして、力ある言葉だと思う。俺はこの言葉の背景も何も知らず、ただこの言葉の底抜けのくらさを感じていた。ちなみに、最初の最初にこの文言を知ったのは猿渡哲也の『力王』(ASIN:4088634012)だ。ハッタリ勝負のジャンプ系漫画にも耐えうる言葉を残したのは、日本宗教史上このときの空海だけである、と。そうかな? まあ、猿渡と鷲崎はどうでもよろしい。この空海の生命観。悪無限的なくりかえし。

生命は宇宙の現象にとってはけっして一般的な存在ではなく、しかしまた例外というわけでもないという奇妙なものである。

 ここで著者は、「では、どこから生けとし生けるものなのか」という出発点に立ち、あらためて生命を、宇宙の歴史を見る。

生命は宇宙に抗して偉大なる秩序を確信したかのごとく生まれてきたとしか思えない。

 宇宙は大いなる熱死に向かっている。すなわち、エントロピーの増大。しかし、生命は器官分化をなし、組織化し、形態にみがきをかけた。生命のエントロピーを部分系のエントロピーとすると、それは減少しているように見える。

生命という部分系は情報を生産することによって、全体系としての物質宇宙とのバランスをとっていた。

 全体のエントロピー増大と、部分の減少。そこに何が起きているか。「エネルギーの散逸」。生命のエントロピーが器官や組織をつくるさいのエネルギーを外に散逸して、全体的にはうめあわせをしている。

もともと情報という発端が宇宙史のどこかにおこていて、その情報の進化がしかるべき適性の遊星の上で生命形態をとり、いずれ意識を発生させたのだとも説明できる。

 ここらあたり、いくつかの偉大なSFを思い起こさずにはいられない。ある人は最新の科学を小説に活かし、ある人は空海に持ってくる。あなおそろしや。

生命は情報高分子としてのスタートを切った。

 地球生命は五つの段階を経て完了する。その最後が「情報の保存」。すなわち核酸による情報の保存。これまた最近読んだばかりの『ブラッド・ミュージック』(id:goldhead:20050802#p3)でも思い起こそうか、と。

生けとし生けるものが地球上にひしめいているにもかかわらず、完全自給自足をおこなっている生物はほんのわずかしかいない。……中略……それは全生物のために酸素をつくりだした「光合成の者たち」である。

 俺が昔大学などに通っているとき、何の間違いだったかパンキョーで「地学」を選んだ。その時に得た唯一深く記憶に残る知識は、この地球環境の大気を変え、大陸を動かし、今の世界を創り出したのは彼ら「光合成の者たち」であったという話だ。空気くらいは作ってもらっていたと思ったが、「地」を動かしてきたことに驚いたのだ。この本にも最古の鉱物よりなお古く緑色植物が働いていたという話が載っている。なにかこう、緑と我々の上下関係を今一度考え直した方がいいんじゃないだろうか。
 そういえば、士郎正宗の『ドミニオン』(id:goldhead:20050721#p4)という漫画に緑色の光合成する少女型の何かが出てきたっけ。
 で、最初のみどりさんである藍藻が生産した酸素が地球をとりまき、オゾン層をつくったわけだ。あとはいよいよその中に生命がひしめきあう番なのだが……

ところが実は、そこにこそ最初にして最大の「生命の矛盾」が顕現するのであるが、藍藻の冒険は次の生物たちがこれと同じ方法で生きる可能性を奪ってしまったのである。つまり太陽の紫外線エネルギーで自給自足のできる生命体をつくることは、もう次に生まれてくる生物にはできなくなっていたのであった。

 なんという藍藻さんの悲劇。自らつくりだした酸素に弱い彼らは、酸素濃度が低い海の底で暮らさなきゃならんようになってしまった。そして、大矛盾から出発した生命は多くの冒険と矛盾と発明と失敗を繰り返して進化(?)していく。そして、二つの相反する特徴を有することになった。

 第一にそれらの生物が共存するということ、第二にそれらの生物は共食するということだった。第一の特徴が認められないかぎり第二の特徴はなく、第二の特徴が認められない限り第一の特徴も成立しない。

 この共存と共食の大連鎖。この生命の矛盾と冒険は古代神話や宗教の情報系に組み込まれている、が、その本質をついたとは言えない。しかし、一人の目覚めた宗教者は違った。それが鹿野苑の動物相手に説教をはじめたブッダであった、と著者は考える。