『ブコウスキーの酔いどれ紀行』チャールズ・ブコウスキー/中川五郎訳

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もしもわたしが改宗したり、信仰したりとすれば、悪魔をひとりぼっちで地獄の炎に包まれたまま見捨てなければならない。それはわたしとしては親切とは言えない。というのも、スポーツ競技などでわたしはほとんどいつも弱者の方を応援しがちで、宗教上の事などでも同じ病癖に襲われてしまうからだ。わたしの感情といえば、不具者や責め苦に苛まれた者、呪われた者や堕落した者に歩み寄る。それは同情などからではなく、同胞意識からだ。
(21-大聖堂)

 ロサンゼルスの酔いどれ詩人ブコウスキーが、自らの生まれ故郷ドイツへと旅をする、文字通りの「酔いどれ紀行」。実は二つの旅を一つにまとめたものらしいが、あまり脚色の影など見られない。それどころか、旅は人を正直にさせるというか、いつもこの詩人は正直なのだけど、なんというかナイーヴなところやイノセントなところがストレートに出てくる。そんな感じがした。もちろん、大聖堂や電車の中でそんな考え事をしたりはするけれど、だいたい酔っぱらっていて、フランスの有名な番組(らしい)に出て、大暴れしたりする。それでも、ヨーロッパにおける彼の紹介者や、若い信奉者たちとの友情など、なかなか他では見られない。そして、写真。思ったより「でぶのじじい」だな、とも思ったが、決してたるんでるわけじゃない。なんというか、かっこいいね。うん。あと、もちろん競馬にも行く。フランスではなくドイツの競馬場だ。

「オッズ表示板はいったいどこにあるんだ?」とわたしはドイツ人の一人に尋ねた。
「オッズ表示板?」と彼が尋ねる。「何ですか、それは?」

 デュッセルドルフ競馬場を訪れたブコウスキー。多くの取り巻きに囲まれてやや不機嫌。そして、オッズ板すらない。やがて一人の同行者が見つけるが、それは賭けが始まって数分すると、賭け金の合計が発表されるというもの。しかし、これでは役に立たない。

わたしはどう勝負すればいいのか見当がつかなかった。つまり、アメリカでなら、ふつうは後になればなるほどかなりの金が動くようになり、自分で見つけだしたさまざまな数値やその時のオッズをもとにして、それをうまく利用すれば、儲けになる金の動きを突き止めることができた。

 ここに詩人が持つ「いくつかの必勝法」のうちの一つが示された。オッズ解析だ。いや、解析などというと仰々しく、中央競馬クラスの異常オッズを突き止めるには、それこそコンピュータを使ってやらなきゃならないのだろうが、この場合は違う。もっと規模が小さなやつ。小さな地方競馬場に行って、新聞の成績欄のどこをどう見ても走らなさそうなのに、あり得ないような人気になっているケース。そして、その馬がなぜか来てしまうケース。無論、ケントクや出目でちょっとした金額を買う奴がいたら、目論見も何もないが、そうでないケースもある。それを見抜くには、その競馬場に長く通う必要があるように思われる。
 また、競馬新聞にも触れられている。

 彼女がわたしに新聞を手渡してくれる。確かに馬の名前が出ていて、それぞれの馬の後には次のような数字が書かれている。9/8/2/6/7……(以下引用者略)
 クラスが上がったのか下がったのかの記述はどこにもなかったし、そのレースの距離や負担重量、騎手や競馬場や馬場状態、あるいはその他の条件について、どこにも出ていなかった。

 やはりこれでは予想にならないと嘆く。だがしかし、これはおそらく競馬新聞じゃなかったのだろうと思う。一般紙の競馬欄(神奈川新聞における川崎競馬)や、スポーツ紙の競馬欄、名前と印だけで着順すら載っていない。ここで詩人が手にしたのもそういった類のものじゃなかったろうか。もしもそうでなければ、いくら国ごとに大まかな競馬観の違いがあるとはいえ、近代競馬が成り立つとは思えない。その点、この詩人が語るアメリカ競馬は、当然のことながらそれを範にした日本の、それも地方競馬に近い。というか、ほぼ同質のようにも思われる。そういやブコウスキー翻訳者の誰かが、「日本に来る機会があったなら、ばんえい競馬に招待したかった」みたいなこと書いてたっけな。
 あと、本編の後に十一の詩が収められている。正直なところ、俺はブコウスキーの詩を初めて読んだのかもしれない。そして俺は、こういってはなんだが、散文に感じるほどの魅力は感じなかった。金子光晴と似たようなケースかも知れない。俺を詩でノックアウトしたのは、今のところ田村隆一だけなのであった。とはいえ、詩はどちらかといえば音楽に似ていて、聴く時々によって大いに変わってくる、そんな気もしている。