『空海の夢』松岡正剛 つづき5

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id:goldhead:20050817#p4のつづき
23-マントラ・アート

A 空海の言語思想について自由に話してみたい。

 から始まり、AさんとBさんの対話形式による章。いきなりこういうことするのだから面食らってしまう。自由にポンポンと発想から発想へ八艘飛びするので、なかなかまとめるのも大変だ。むしろ、この対話自体がまとめになっている。

本来は果分不可説の宗教世界に果分可説の言語宗教を持ち込むのはよほどのことだ。大半の仏教者が現象世界は言語にもなるが、絶対世界のサトリは言語にならないのだから大悟してもらうしかないと言っているのに、むしろ絶対世界のほうが伝えやすいと逆襲しているようなものだ。

 まさに「真言」というところだろうか。般若心経の「ぎゃてぃ・ぎゃてぃ……」は鳩魔羅什や玄奘が音を写すのみで、註釈すらしなかったのに、空海は解釈し、意味をつけた。そして曰く「これを説き、これを黙する、ならびに仏意にかなえり」。

言語そのものが秘密かどうかということではなく、言語が秘密をよびこむ。つまり真言が本質をよびこむと考えた。………空海は声と字をふくむ言語そのものが本質をよびこむ力をもっていると考えたわけだ。またそのような力を持つ言語をマントラだとみなした。

 広辞苑で「真言」をひくと「(梵語 mantra の訳語) 密教で、真理を表す秘密の言葉」と出てくる。しかし、秘密とは見せないことではなく、「そこを示すこと」が秘密になる、と。で、停止した言葉そのものではなく、よびこみの力だと。ここでチョムスキーの名が出てくるが、ますます手に負えないのでスルー。

『吽字義』にも次の言葉がある。「一は一にあらずして一なり、無数を一となす。如は如にあらずして同同相似せり」同じものをクローン的に増やすというのじゃなくて、むしろ相違のあるものをたんねんに同じうさせてみるという点に、空海の意図があったようにおもう。

 何度か語られてきた「ゆらぎ」や「散逸」、そして「マンダラの対称性が厳密に対称でないこと」などなど。章タイトルのマンダラ・アートはマンダラの技法という意味もあるのか。真言宗において、空海以降そのスケールは落ちるというが、一人の真言者がおればそれでよいとも……。

24-憂国公士と玄関法師
 この章では空海と国家について述べられる。空海は当時のナショナル・プロジェクトのチーフ・ディレクターでもあった。

 東洋思想は国家を無視しない。とくに仏教は国家に対して自らのサイズをあわせつつ、なおもやすやすとこれを乗り越える。革命の観点は、国家のレベルでもちだされるのではなく、すでに家のレベルでもちだされる。出家そのものが革命なのである。

 この文を見て思い出すのが、まずは選挙も近いことがあり創価学会だ。そしてさらに、オウム真理教。オウムに関しては、吉本隆明が宗教者としての麻原彰晃を論じようとしただけで、かなり袋だたきに遭っていたっけ。そういえばこの本の新装版では一章がオウムにあてられているらしいが、読んでみたいな。そして、本編はそのあと空海が記した国家論問答になる。

 この国家観はランケやブルンチュリ以降の近代国家学を先取りしているようなところがある。みごとに国家観念のレベルを個我観念のレベルの集積としてとらえているからである。個人の自由の成立の上に構える国家が近代国家というものであるが、それは個人主義的放縦の度合いに応じて乱脈を余儀なくされる。空海はそのことをはやくも平安朝の古代律令国家の末路のうちにとらえていたようだった。

 ランケははてなのキーワードにもあるな。ブルンチュリ。http://www.nichibun.ac.jp/~sadami/extract/prop3/proposal3.htmによると「よく知られるように国家有機体論である。これは日本にも大きな影響を及ぼした。いわゆる天皇機関説を生む。」だそうだ。他の検索結果を見ても、日本に影響を与えた人であるようだ。そしてまた、このリンク先のサイトもなにやら興味深く思えるので、いずれ読もう。だいたいこの本を読んでいて、気になる言葉や人名を検索すると、ピタッと何か関係ありそうなあたりが出てくる。これが編集の結縁というものだろうか。

国家―個我という一直線上の紐帯を、無我―国家という順にきりかえてしまったのである。周知のようにマルクスはそうは考えなかった。国家―個我という軸線をそのままにひっくりかえそうとした。

 周知のようにと言われてマルクス言われても、これはもう困ってしまう。マルクスは一種のメーン・ストリームの存在であって、賛同しようにも批判しようにも、それ以前のものとしてどうしたものか手に負えない。一つには「いくらマルクス論を読んでもダメだ、原典にあたれ」というような物言いを、どこか信じているところがあって、となるとあれか、あの『資本論』か。ということになる。あの、とは実家にあった分厚い物体そのもののことであり、やはり困ってしまう。このあたりは保留して、今日はここまで。