制服の世界

『境界の発生』赤坂憲雄
(→id:goldhead:20051015#p1)

 現代にあっては、人間の姿・形と身分・階層・職能などとの規定的な関係はほとんど失われている。両者の関係が一貫した厳密な社会秩序として存在するのをやめたのは、近代市民社会以降のことである。それ以前の社会では、人間の姿・形はその社会的存在のありようを直接的に標示していた。形が存在を(ひいては心をも)規定すると考えられていたのである。

 『境界の発生』は非常に説得力に富み、実に肯かされる本であったが、一点だけ疑問に思ったのが上の箇所である。『境界の発生』はそのタイトルとは逆に「境界の喪失」について語るものでもあるが、果たして「姿・形」と「身分・階層・職能」との関係は「ほとんど失われている」のだろうか。一貫や厳密、直接的の度合いでいけば(度合いでいってはいけないのか?)、近代以降と中世やそれ以前を比べれば違うだろうけれど、今なお「姿・形」は多くのことを標示する、生きたイコノグラフィーに他ならないのではないか。そんな風に浅学菲才高卒無職(ここでの無職=身分。毎日通勤労働しています)の俺は思った次第である。
 なぜそう思ったかと言えば、この俺ですら背広を着ると意識が大きく変わるからだ。昨日なども背広らしきものを着て名刺交換などをしたが、やはり背広の効用は大きい。内心「てめーこら、高めの定収入ありやがって、低収入無職なめんなよ、耳噛み切るぞ」とか思っていても、それを厳重に押しとどめるものがある(いや、私服だからって仕事の打ち合わせ行って初対面のクライアントの耳噛み切ったりしないですけど)。何かいっぱしの社会人になったような気にさえなる。というか、俺は制服というものの効用に左右されやすい人間らしく、それなりの制服さえ着ていれば、世界で一番オフィシャルな場でもなんとか立ち回ってみせるぜ、くらいの、まったく根拠のない自信というか、妄想があるくらいなのだ。人間、腕章一つで心持ちが変わってくる。良くも、悪くも。
 ここで少し飛躍して、あてのない想像してみたい。想像してごらん、制服のない世界のことを。戦争のない世界、貧困のない世界を想像するより、ずっと難しい。人間ははたして制服なしで大規模社会を成り立たせることができるのだろうか。この手の想像を創造することにはうってつけのSF世界でも、人類皆制服的なユートピアあるいはディストピアは目にするが、全員私服のカジュアル未来はお目に掛かったことはない。とはいえ、今年はクールビズもあったし、ワームビズとかいうのも来るらしい。エントロピーの法則に従えば、姿の境界もさらに失われていく方向にあると言えるのは確かだろう。その未来について、俺が気になるのは、果たしてエロビデオや風俗のコスプレジャンルが失われる変わりに、何が生み出されるのかということだけである。