『調律の帝国』見沢知廉

ASIN:4104201014(単行本)/ASIN:4101473242(文庫本)
 昨夜古本屋で購入、七百円。見沢知廉の訃報を聞いたとき(id:goldhead:20050908#p4)に買おうと思っていて、なかなか状態のいいハードカバーが手に入った。装幀がすばらしい。
 この小説は、その黒々とした装幀に似合った獄中小説だ。ずしんとくる、「重い刑務所の中」の話だ。これを読んで俺の刑務所への淡い憧れは霧散する。しかし、それより戦慄すべきは筆者の「小説を書くこと」への思いだ。外界の極限に対して内面の文学。これには揺さぶられるものがある。
 ところで俺は、『調律の帝国』は獄中物ではないと勝手に思いこんでいた。別に楽器の話だとは思っていなかったが、なぜだかわからないが、見沢は刑務所から出たのだと思っていた。あとがきにこんな一文があった。

 まだ、これだけで“十二年”の地獄巡りで嘔吐し尽くしてはいない。しかし、次は監獄以外の<狂気>を書く。

 ああ、俺はその「次」が来ると思って、てっきりこれがその「次」だと思っていたのだ。しかし、見沢は「ノンフィクションやエッセイ」で語り尽くせなかった。そして、この『調律の帝国』でも語り尽くせなかった。それでもなお、「次」があるはずだった。あとがきの最後には彼の住所が記されている。質問や感想があれば、気軽に書いて下さい、とある。昔の、誠実な文学者のような、凛とした姿だと思った。
______________________
 以下、本筋からちょっと離れて気になったところをメモする。

「……明治以来の日本、忠孝倫理、憲法刑法、父権家族主義、国家神道、政治的天皇制も、山県有朋が作った監獄応報主義も含めて、これは神道、神のみち、日本ではない。儒教、理知、漢心、悪しき近代だと思います」

 これは主人公である政治犯Sが、神道教誨師松居との会話で述べた言葉。以前読んだ『神仏分離』(id:goldhead:20051115#p1)にも出てきたが、日本近代化の背景には、西洋近代思想ばかりでなく、「漢心」の合理主義があるように思える。また、中国が共産主義と今なお離れないのは、もともとの合理的な民族的性質に共産主義との大きな和合性があったのではないかと思うが、そこらあたりはどうなのだろう。

 文体、レトリックではなく内容を俎上にあげて欲しい。純文学は伝統工芸―「上手の、目利かずの心に合はぬ事、是は目利かずの眼の及ばぬ所」(風姿花伝)―ではない、あらゆる学問を<征服>する<暴君>、<学の女王>でなければならない。あらゆる分野の専門家を口説き落とせるジゴロでなければならない。
 茶も能も、作法が支配者となれば死ぬ。「得たる上手にて、工夫あらん為手ならば、又、目利かずの眼にも面白しと見る」(同)のだ。

 これはあとがきに吐露された見沢の心情である。内容もまた「文体、レトリック」によってのみ存在せざるをえない以上、そこらあたりの関係はどうなのか、と俺は思う。しかし、「作法が支配者となれば死ぬ」というのは、まさにその通りではないか。文学・芸術以外にも幅広く言えることかもしれない。新約聖書にもあったな、律法が人の主なのではなく、人が律法の主なのだとかいう話(id:goldhead:20050517#p2)。ところで、和泉元彌は‘目利かずの眼’のために能を再生させようとしている!……と言ったら言い過ぎか。

「家の破産と中流階級からの没落、社会からのドロップアウトで君は最低最小限の共同体を幼いうちに失ってしまった。つまりその報復だろう? 本音は社会、この大きな共同体を破壊したいんだろう?」

 監獄医から主人公Sへの一刺し。俺が刺されたのかと思った。俺は最近、寝るときの頭の方向を180度かえたら、三日連続で家を失ったときの夢を見た。