ささやかなエクソスケルトン

 先週の土曜日に靴を買いました。冬らしい色合いで、なかなかのお気に入りです。しかし、新しい靴をおろしてから、しばらくの間ドキドキするのは私だけでしょうか。足が悲鳴を上げます「おい、中で少し当たるところがあって痛いぞ」とか「きつすぎてたまらない」あるいは「ぶかぶかで歩きにくい」などと。やがて、足にしびれを感じ、ふくらはぎはつりそうで、太ももは筋肉痛のシグナルを発する。いよいよこれは誤った買い物をした、なんということだ。サイズも合ってないし、形もあっていないのだ、と暗澹たる気持ちになる。
 ところがどうでしょう、たいていそんなのは数日のことで、やがて平気の平左になって、そのうち靴についての意識すら霧散してしまう。これは、靴が足に馴染んで形を変えたのか、足が靴に合わせて変化したのか。あるいはそのいずれかでしょうか。
 しかし私は、今朝歩きながら一つの考えが頭に浮かびました。脳が靴に慣れたのだ、と。これは言うまでもなく、立花隆NHKスペシャルのこと(id:goldhead:20051105#p1)が頭のどこかに残っていたことによります。あの番組では、腕を失った主婦が義手を使いこなしていく過程が紹介されていました。はじめは脳が戸惑っていたのですが、やがて義手からのフィードバックに応じて脳が慣れる。脳の機能が拡張されたのです。
 あくまで阿呆な素人の通勤中の妄想です。靴という遥か太古より人間とともにあったこの道具も、一種のエクソスケルトンではないのか、と。やがて脳が足を補強・強化するこの拡張身体の特性を見極め、本来の筋肉や骨格に適当な補正をかけていく。それが靴に慣れるということではないのか。そして、先の番組で脳の改造と表現されていたようなことも、あるいは人間という汎用性の高いOSが十分に受け入れられる、デフォルトで用意された機能にすぎないのではないでしょうか。
 たとえば、これを今打っているこのタッチ・タイピング。私はいちいちキーの配列を探したりはしません。思い浮かべた言葉すなわち打鍵。そこに目や指の介在を感じない。ここに、接続部分はアナログに頼りながらも、やはり脳―コンピュータの直結があるのではないか。私は夢から醒めるときに言葉を無意識にタイピングしているのを感じたことが何度かあるくらいです。あるいは、浦沢直樹の『MONSTER』に出てきた刑事ではないですけれど、言葉を見て無意識に脳がキーを押している、と感じるときすらあるのです。
 ……こんなくだらないことを考えているうちに、どうやら私は靴の存在を忘れつつあったようです。新しいナイキはやがて意識せざるナイキとなって私に溶けていく。しかし、消耗品ですから、やがてまた足が悲鳴を上げる。あなた、私はスニーカーを一つ、そこまで履きつぶした。底が浅くなりすぎたのか、歩いていてすぐに足が疲れるようになった。オウンオピニオンは裸足でうまく走れるが、イソノルーブルはうまく走れない。生まれ育った環境に私たちは補正されているということを、多少なりとも考えてみる必要があるのかもしれません。