人身悟空譚

 月曜日のドラマ『西遊記』の第一回は、牛魔王が村の娘を差し出せ的なあれであり、三蔵法師以下が身代わりとなってあれこれという話である。これを見ていて俺は思いだした。
「人身御供譚の発生」P230図1より(『境界の発生』赤坂憲雄

(A)毎年、人身御供をもとめる邪神がいる。

(B)処女がイケニエにささげられる。

(C)異人あらわれ邪神を退治する。

(D)人身御供の風習はやみ、異人は処女と結婚する。

(E)邪神・イケニエ・異人は神となる。

 これはあくまで定型であって、(D)、(E)あたりは異なるが、『西遊記』のもまさにこれに当てはまるだろう。このあと、この章では供儀が共同体の内部から外部へ、贖罪から儀礼へと置き換わっていくプロセス、また、置き換えこそが供儀の本質であることが述べられていく。身内の人間から異人、そして動物へと。諸葛亮 による饅頭の起源(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%89%E3%81%BE%E3%82%93)の伝説など、いきなり非生物といったところだろうか。で、人身御供譚は「伝承の現在からは隔絶した遠い異空間を舞台として、しかも習俗の終焉に至るプロセスを物語る形式を踏むのは、なぜか。」、「再認されつつ、否認されなければならない」となるわけである。そして最後に、<追記>がある。

起源・原初・祖型……とはいずれ、一個の、幻想にいろどられた物語である。あらゆる起源は、あらかじめ先行する起源の物語の模倣ないし反復である。あるいは、起源の物語をめぐる反復の構造そのものが起源である、といってもよい。いわば、“初めに反復があった”(J・デリダ)のである。

 ジャック・デリダと言われても何のことやらわからないが、「起源の物語をめぐる反復の構造そのものが起源である」というのはなんかビタッとくる感じあるように思われるわけだ。
 ところで、『境界の発生』が取り上げているのは日本の話だ。しかし、「西遊記」は中国の話だ。すなわち世界を股にかける「起源」(反復)がどこかにあるのだ。
『知の編集工学』松岡正剛

 おそらく物語には「物語の母型」のようなものがいくつかあったのだ。(中略)私はこの母型のことを<マザー>とよぶことにした。正確には<ナラティブ・マザー>ということである。

 ということで、著者は世界中の物語のデータベースを作ったりして、その<マザー>をいくつかの単純なパターンに分類したりしているらしい(『西遊記』も<巡回マザー>の一つとして表の中に名前があった)。さらには、

 見落としてはならないのは、<マザー>から言語体系や国語がつくられていったということだ。

日本語というシステムは『平家物語』が語られていくなかで形成されていった。おそらくは『太平記』語りが文字に定着したころに、ほぼ日本語システムが完成しはじめていたとみればいいだろう。

 というのだ。人類には普遍的な「物語回路」が備わっており、物語るのは「発現」するとも書いてある。先に<マザー>ありきかいな。ん? ところで、『平家物語』語りか。また、『境界の発生』に戻ろう(あまり本を読んでいない俺は、少ない本を往還するだけなので楽なものである。読書家は大変だろう)。「まつろわぬもの」たる琵琶法師(id:goldhead:20051212#p1)の話だ。

「音声言語」が「書記言語」によって優位性を奪われる時代のはざま―<中世>に、<歴史>と交差する盲人たちの最期の光芒があった。<歴史>伝統の正統の座を「文字」に逐われる「語り」、「語り」の呪力の衰微と「文字」の威力の擡頭、語られる<歴史>と記される<歴史>の懸隔……、さらに、豊かな琵琶法師論が構想されねばならない。

 それぞれの書いてあることを信じるならば、ここらあたり<物語>や<言語>そこらへんの何かしらなのかもしれないな。
 あれ、ところで何の話か。そうか、『西遊記』だったか。『スター・ウォーズ』(http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0704.html)も<マザー>研究・解析がバックにあったというし、『西遊記』も現代においてばりばりに通用するというのは、まあ、『ドラゴンボール』以下かなりそのままの形で用いられている。しかしながら、それら解析をして反復・模倣したところでヒットする話が作れるわけでもないだろうけど、そこらあたり自体は面白そうな話だな。解析というと、YMOが「君に胸キュン」について、電気グルーヴが「Shangri-La」について、それぞれ世のヒット曲を解析したものだと語っているとそれぞれでどこかで読んだ覚えがあるが(うろ覚えすぎる)、音楽にもそういうのがあるのかな、とかさ。なんかもうまとまんないけど、別にいいけど。